Episode51 「心と体が壊れる自覚 続けていたらどうなったのか」

2013年5月28日

障碍保健福祉部を離れたのは2005年の夏です。
ちょうど小泉総理の「郵政解散」があり、障碍者自立支援法案が、あと少しで参議院でも成立する直前、審議未了として廃案となったときでした。この段階では、既に、心も折れ、体にも澱のような疲れが溜まっており、自分でも、限界だなと考えていたときでしたので、この廃案のショックは相当のものでした。

 

また、同じ時期に人事面では、私の状況を考えもせず、私を障碍保健福祉部に残すという画策がされていることが私の知るところとなり、さらに私の精神的な状況を悪化させました。
「もうやってられるか!」という気分で、人事異動の調整時期に、事実上の辞表を人事課に叩き付けました。そのまま、辞めようと思っていましたが・・国立病院機構に異動という「面白そうな餌」を提示され、最後の仕事と決めて異動することになりました。

 

当時は、小泉総理の率いる新自民党が、あれほど勝利するとは予想もできず、9月10日の投票結果を見た時には、一瞬、早まったかな・・無責任と言われるか・・とも思いましたが、配偶者から、「これまでも忙しい仕事をしていましたが、今回は、本当に大変そうでしたね。異動できてよかった。」との言葉をもらい、自分の選択を改めて納得させたものです。
その後、しばらくは、報酬チーム等からの事実上の相談も受け、側面からの支援はしていましたが・・体制も変わり、いつまでも関わるわけにもいかず、国立病院機構での仕事が本格化するのと並行して、障碍の仕事については手を放しました。

 

あれから、10年近くたった昨年11月に、滋賀県の草津市の幹部職員の方と、滋賀でお会いする機会がありました。
その際に、当時、福祉部門にいた二人からは、「障碍者自立支援法の施行は大変だった。」との言葉をもらいました。県に聞いても「いつになるか、わからない」、国に聞いても「待ってくれ」の回答ばかりで、何の準備もできず、ある日、突然に大量の施行通知文書が来て、「遺漏のないように」と言われて困ったものだ・・との話を聞いて恐縮するばかりでした。

ついでに、「お前が最後まで、ちゃんとやらないからだ」とも、笑いながら言われました。国会の委員会質疑で、某議員に、「北川企画官という人は、心の冷たい人」と名指しで言われたときも、特に、何も感じませんでしたが、この時は、心が痛みました。

 

もし、あそこで辞めていなかったどうだったか・・と久しぶりに一瞬頭を過りましたが、結果はともかく、当時の私の状態では、数か月で倒れていただろうと思うばかりです。家族に聞くと、当時、家でも「やってられるか!」と大きな声で叫んでいたようですので。
また、今、あの場所にいたらと考えてもみましたが、今の気力・体力では、当時の組織の状態を凌ぐことは無理だな・・とも思いました。自分としては、気力・体力・判断力が最も充実してバランスのとれた時期に、あの場所にいたのだと思いますが、逆に、それを超える役所での仕事はできないと判断して、今の世界に新たな可能性(自分の成長の可能性)を求めたとも言えます。

 

今年初めに、定例の役所の同期との飲み会がありました。

いつも通りの相互の状況報告から始まり、最後には、なぜか私を役所に復帰させるという話題になりました。

私も、冗談半分で、「役所にいても民間にいても世の中の役に立つことは同じであり、必要があれば役所に戻ることもあり得る。少なくとも、今年から始まる3年の仕事の後だね。」と回答してしまいました。

約8年前は、役所のことを考えるのも嫌でしたが、相当、私の心情も、余裕が出て変わってきたのでしょうか。

この話題が、酒席での冗談で終わることは確実でしょうが、少なくとも、その価値のある人間であり続けたいとは考えるところです。