2016年7月15日
清濁併呑~善も悪も区別することなく受け入れる度量の大きさや心の広さがあるという意味の四字熟語。
私の世代の人間には、良い意味で受け止める人が多いと思いますが、私の子供の世代になると、良い意味で受け止める比率は低下するのではないでしょうか・・。
現在、政治家をはじめとする社会的に注目される人に求められるのは「白」であること。本人の力量よりも、お金、スキャンダル等の面において問題がないという外形的なことが十分条件とされており、清濁併呑に含まれる「濁」の面などは拒否されるからです。
しかし、歴史上、清濁併呑と言われた人たちは、清と濁の両面を持っていたわけではないような気がします。本人は、世相に応じて移ろう清濁のレッテルに無関係に、自分の考える一つの基準に従って判断行動するだけであり、その結果、自分の基準に適合していれば、世間の基準では清濁に分かれる人々であっても、同じように付き合うという結果になるだけなのでしょう。決して誰とでも付き合うということではなく、明確な自分なりの線引きがあったのではないかと思います。
こうした人たちの存在を、直接、経験することはありませんでしたが、それでも20歳台の頃に議員レクでお会いした古手の議員などは、そう思わせるような雰囲気を持っていました。今では、そう感じさせる人もいないような気がします。
一方で、公私混同の人たちは、少なくとも報道の中では増えているようです。
政治家に支払われる歳費・手当の使い道をめぐる問題は、何年経っても、低レベルな公私混同の世界から脱することができません。しかし、これを政治家だけの問題として捉えるのは一面的に過ぎるような気もします。
非営利と言われる医療法人の決算書をみると、理事長個人が法人から資金を借り入れている事例が、よくあります。そのほとんどは、創業時に個人で資金を銀行から借り入れ、法人化した後で、その借入を法人に移したことで生じているものですが、中には驚くような由来のものもあります。理事長が資金運用や個人事業に失敗して、その負債を法人に付け替えたといったもので、その負債規模が10億を軽く超え・・計画的な返済もしていないといった特殊な事例も現実に見たことがあります。
こうした公私混同を平気でする人も、見ようによっては大物に見えますし、自分なりの行動基準はあるのでしょう。しかし、それはあくまで自分の利害が中心的な判断基準であり、清濁併呑の際の社会を変えるといった、公に関わるものとは大きく違うような気がします。
それがわかるのは、いざという時に、周囲の人がどのように行動するかです。
清濁併呑の人なら一致して応援する行動が起き、公私混同の人なら櫛の歯が欠けるように周囲から誰もいなくなる・・公私混同には人望がないのが当たり前だからです。
皆さんの周囲には、何があっても応援したいと考える人がいるでしょうか?