2015年12月8日
今回から、入省に至る話です。
1981年4月に、福井の公立高校から東京大学に進学しました。
今では高校3年生は受験勉強というのが当たり前のようですが、当時は、大らかな時代・・周囲からの依頼を受け、高校3年の前半は生徒会長の役割を担っていました。当時のメンバーは積極的な人が多かったので、特に、リーダーシップをとる必要もなく、全体の段取りだけを決めておけば、あとは、勝手に皆が動いてくれる・・楽なものでした。
しかし、秋の学校祭は、今でも関係者の間では話題に上るくらいに盛り上がりましたので、その熱に浮かされてか成績も急降下・・とても偏差値の高い大学に合格できる状況ではありませんでした。当時、大学に行って何がしたいとの明確な目標はありませんでしたので、どこの大学でもよかったのですが、高校の進路指導部門や私の家族の話を聞いていると、東大、京大などを受験して当たり前といった雰囲気でしたし、それならトップを目指すという単純な動機で東大を受験対象に選択・・直前の詰込みの成果か、滑り込みに成功しました。
翌年、高校の進路指導の先生には、「困るんだよな・・3年後半のあの成績で東大合格されると。今年、東大受験を目指すものが増えて。」と、昨年のことは忘れたような愚痴の言葉をもらいましたが、それほど数字の上では、奇跡的な合格だったのだと思います。
入学はしたものの、特に目的意識を持っていたわけではありませんので、周囲が、毎日学校に真面目に行ったり、司法試験の予備校に通うのを横目に、ひたすら落第生よろしく、学業以外のことに時間を費やしていました。それでも数少ない友人から提供されるノートのコピーを活用して試験直前の詰込みをして、試験の日だけ学校に行き、無事、2年で教養課程を修了・・法学部に進むことになりました。途中退学した人も何人かいたようですが、そこまで覚悟があるわけでもなく、何のために大学にいるのか・・と自問自答しても、あくせくせずに楽に時間が過ぎるのを捨てるのももったいない・・程度の気持ちで、答えも出さずに時間を過ごす日々でした。
20歳も過ぎ、そろそろ就職のことも考える時期でしたが、両親は、私が司法の世界に行くのだろうと期待していたのだと思います。叔父が検察官であり、東京地検特捜部長などを歴任していましたので、たまに家に顔を出して話を聞いたりすることもありましたが、何度か話を聞いているうちに、「これは、自分の仕事ではないな。」と感じるようになっていました。確かに、正義や救済を前面に出す仕事ですが、どう考えても、他人のやったことの後始末の仕事であり、「後始末よりは、他人に後始末させない仕事をしたい。」と考えたのでしょう。お役所を辞めたのも、支援費制度など、他の人の失敗の後始末は、もう沢山・・と考えたのと同じことです。
もちろん、当時、司法試験合格には、少なくとも1年以上は勉強に専念しなければならないと言われており、勉強だけで1年を費やすのは長いと思ったことも理由の1つですが、今でも、魅力的でない仕事のために1年を費やすのは惜しいと思うのは同じですので、なかなか人間変わらないのだと改めて思います。
さて、大学4年目には、親への言い訳もあり、司法試験を受験しましたが、最初から合格する気はありませんので、当然、成績が芳しいわけもありません。それでも、どこに就職するかは決めかねており、親には、「司法試験を受けるから」との理由で、もう1年大学に行くと了解を得ました。端的に言えば、親を騙したということです。
大学5年目に入りましたが、さすがに経済的な理由で大学6年とは言えませんでしたので、当時はバブル時代・・給与の安い役所よりは民間だろうと簡単に考え、いくつか民間企業の面接を受けました。目的意識がはっきりしないと採用されない今の大学生の皆さんとは大違いですが、その年は、学生側の「売手市場」でしたので、特に、志望動機を確認されるわけでもなく、何となく内々定が出てしまったというのが本当のところでしょう。
ただ、いきなり民間に行くでは、親と話がつかないと考え、少なくとも国家公務員試験合格くらいは必要と受験。
これも直前の詰込みで、国家公務員試験一次試験は合格できそうな感触~親への言い訳もできたと思いましたが、ここで覚悟が試されることになりました。