2015年11月28日
児童家庭局の最後の仕事は、所管外の児童相談所でしたが、担当の仕事で未完のまま終わったものもあります。それは障碍福祉の仕事です。
厚生省を仕事として選択した経過は、来月に書くつもりですが、厚生省に入ることが決まった後に、東京在住の伯父に報告に行ったところ、そこで驚くことを聞きました。伯父の義父が知的障碍者の親の会~育成会の会長(全国)だということです。即座に、「失敗した。関係者がいる役所に入ってしまった。」と思いましたが、「まあ、大きな組織なので、直接関係することもないだろう。」とも思い直しました。しかし、最初の局で、直接の担当課に行くことに・・伯父の義父の会長には、「絶対に、役所では、身内だということは言わないで欲しい。」とお願いしたことは当然です。会長は、足繁く、障害福祉課に来ていましたが、私との約束を守ってくれている様子でした。
さて、ある日、障害福祉課長から、課に出入りする福祉事業者の方の中で、面白い人だとある人を紹介されました。長崎(写真)の事業者・・今でも全国的に有名な法人の理事長でした。当時、40歳くらいだったと思いますが、育成会会長のことを尊敬していると言って憚らず、何となく親近感が湧いたものです。彼は、知的障碍者の就労を広めることに熱心で、身体障碍者で制度化されていた福祉工場と呼ばれた制度を、知的障碍者にも広めて、良いものを増やしたいとの目標を持っており、その窓口に私がなることになりました。
障害福祉課の上司の紹介で、面白そうな就労事業を見に行き、また、長崎の彼の話を何回か聞いて、知的障碍者の福祉工場の運営に関する考え方の整理を始めましたが、今の私とは違って、あくまで頭で考えただけの表面的なものにとどまり、障害福祉課の中での議論には耐えられないレベルのものでした。残念ながら、長崎の方の熱意は形になることなく、私は、大津へ出向となりました。
後日、障害福祉課から、「彼が、福祉工場の指針はどうなったのか。」と残念がっていたと聞き、少々、後ろめたい思いをしました。私の力不足の結果なのでしょうが、今から振り返ると、私自身が、障碍者の就労ということに、ある意味では懐疑的だったのではないか・・と思うところもあります。
その後、約20年を経て、財政破綻した支援費制度の立て直しの一員として、再度、障碍福祉部門に異動することになりました。この間で、元育成会会長は鬼籍に入られ、当時の障害福祉課のほとんどは退職となっていましたが、障碍福祉制度の基本は、当時と何も変わっていないと感じたことは、以前のコラムで記載したとおりです。
一方、私のほうは、20年の蓄積を経て、障碍福祉が間違った方向を向いているのではないかと考えるようになっており、そうした事業を漫然と進める既存事業者の半分は「潰れても構わない」というくらいの気持ちで、制度改正に取り組んだものです。その検討の中で、長崎の法人の例が、よく出ましたが、懐かしい思いを感じるとともに、20年前の後ろめたい思いを清算するという意味も含めて、障碍者の就労を中心の課題に位置付けました。
昨年、長崎の法人も理事長交代がありましたが、その後、前理事長に久しぶりにお会いし、「先日、東京の会長のご自宅に行き、会長とあなたの関係を初めて知った。」と聞きました。会長は、亡くなった後も、約束を守ってくれていたようです。
また、前理事長から、会長夫妻の写真をいただきましたが、力不足の自分を思い出し気恥ずかしい思いがしたものです。