旅の楽しみ61:古代の外国交流の中継地 壱岐に渡る(離島訪問)

2015年10月25日

今回の離島訪問は、長崎県の壱岐です。

 

壱岐で、まず思い出すのは、魏志倭人伝(魏書東夷伝倭人条)の邪馬台国に至る道程の記載です。
朝鮮半島から、対馬(海)国、一支(大)国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国に至るという有名な記載ですが、大学生時代に、邪馬台国論争に関する本を読み漁った記憶があります。

30年経ち考古学的な知見が増えても、畿内・九州の両説の決着がついていないのは変わっていませんが、一連の道程のうち、対馬、壱岐、東松浦半島、糸島半島までは、今も昔も、固まった説のようです。外国への前線基地である対馬、本土の玄関口である東松浦半島を中継する壱岐が、今回の目的地です。

 

本来であれば、魏志倭人伝の逆のルートで東松浦半島の根元である唐津から船に乗りたいところでしたが、時間があわずに博多港から高速船を利用です。いずれの島も、人で賑わうのは夏と決まっていますが、なぜか、壱岐行の高速船は、人で溢れています。
壱岐の港で待っていたレンタカーの係の人に聞くと、「本日は結婚式があるようです。」とのこと。後刻、お土産屋さんで追加取材をすると、「壱岐の人は、福岡等で働いていても結婚式は島でしますから、お客さんが大挙して来ます。昼から始まって夕刻まで宴席は続き、焼酎で酔って、夕刻の船で、また酔いが回るということが普通ですね。」と、笑いながら教えてもらいました。きっと1泊しないで夕刻の高速船で戻ったら、船内は酒臭かったのでしょうか・・

しかし、壱岐への移動は、長崎空港から2往復の地方路線はあるものの、島の移動の中心である船は、博多と唐津だけと、他の島とは変わっています。地理や交通を中心に考えれば、壱岐は福岡県又は佐賀県ではないかと思いますし、壱岐で話をした人も、長崎より福岡を意識しているような話しぶりでしたし、結婚式の話も人の移動がどこを向いているのかを示すものでしょう。

 

壱岐は、魏志倭人伝には約3千戸と記され~当時約1.2万人の人口だったと推定されますが、今はその2倍強。しかし、私が邪馬台国に関心を持っていた30年前には約4万人の人口。大きく人口を減らしていますが、その反映か、2年前には2つの自治体病院が統合され、今年から、その統合病院も長崎県病院企業団の運営に変わっています。

他の島と同じく、ドクターヘリで運ばれる患者さんもいることでしょうが、医療資源の多い福岡ではなく、同じ県である佐世保等に運ばれるのでしょう。どちらが合理的かは、言うまでもないでしょうが、行政区画を超えて医療を考えるべき地域の1つのかもしれません。医療制度は、不思議と行政区画の矛盾を意識させる実例が多いものの1つのようです。

 

さて、今回は、島で1泊して、ゆっくり島を1周することにしましたが、何か所か運動会の様子が目に入りました。先月は、種子島の運動会中止を見ましたが、今回は、「雨男」の汚名をそそぐことができたようです
しかし、今回、最も印象に残ったのは、やはり一支国の王都と特定される原の辻遺跡(写真)と、その遺跡を保管する一支国博物館でした。長崎で2番目の広さの深江田原平野の田園地帯の中に、約100haの面積を有する原の辻遺跡ですが、ガイドの方は、電線の地中化を進めるなど、一支国時代を念頭に置いた修景事業を進めたと強調され、魏志倭人伝に出て来る国の中で、国の場所と王都の場所が特定されている唯一の地であることを誇りに感じていることが伝わってきました。

東京に戻ったら、埃をかぶっている邪馬台国関係の本を再度読んでみたいと思った瞬間でした。

 

その前に、福岡での仕事がキャンセルになった1日を利用して対馬に渡ることに。
できれば、魏志倭人伝で、「土地は、山けわしく、深林多く」と言われた自然の中で、対馬やまねこや対州馬を見てみたいものです。