Episode134「新たな制度創設への対応 専門官と2人で分担」

2015年9月18日

国家賠償訴訟のために、育成課に頻繁に出入りするようになりましたが、そのうち児童福祉専門官から、声をかけられました。
福祉部局には、福祉の専門職の方のポストとして専門官という席があり、多くは、地方公共団体の福祉機関からの出向者です。その人は、確か、愛知に児童相談所から出向した人でしたが、里親制度をなんとかしたいと考えていました。

 

里親制度は、昭和22年に制定された児童福祉法により、戦後直後の混乱で、いわゆる「浮浪児」と呼ばれた子供たちの養育方法として位置づけられたものですが、経済成長や養護施設の整備もあって、昭和30年頃には9千人を超えていた利用児童数が、昭和60年頃には約1/3まで減っていました。
専門官は、このままでは、家庭生活の中で人との適切な関係づくりを学べる里親制度がなくなってしまうと危機感を持っていたのでしょう。盛んに、私に話しかけ、里親制度の基本通知の見直し作業に引き込もうとしていました。

 

今でも、記憶に残っているのは、「里子には、ヤギの乳を飲ませる。」という処遇内容です。戦後直後の状況を背景に作られた基本通知ですが、その後、何の見直しもなく、40年近くの時間を経ていたことを知り、「福祉行政は、予算配分ばかりして、サービスや制度の内容などは、あまり考えて来なかったのだな・・」と思ったものの、当時は、こうした雰囲気が強く残る児童家庭局でしたので、仮に、専門官と2人で作業をしても、「そんな必要はあるのか」という幹部の一言で、無駄になることはわかりきっていましたので、正直、私は及び腰でした。

 

ちょうどその頃、民法改正によって特別養子縁組という制度が新設されましたが、子と親のマッチングの実務は、福祉部局の指導・監督が期待され、里親という仕組みが、従前とは違った意味で注目されることになりました。いわば「神風」が吹いたのです。
専門官は、俄然、やる気になり、特別養子縁組に関する法務省との協議や、里親の基本通知を見直すことに精力を費やし、私も、それに引っ張られる形で、通知の新設・改正などの実務を担当することになりました。これらは、昭和63年の特別養子縁組の施行にあわせて各都道府県に示され、専門官の願いは叶うことになりました。

 

あれから30年近く経過しましたが、里親制度を巡る環境も、特に2000年以降、大きく変わりました。いわゆる社会的養護においては里親委託を優先して検討することが原則とされ、里親も養育里親、専門里親、養子縁組希望里親、親族里親と区分され、数年前には、「里親委託ガイドライン」も出されるなど、児童養護の世界では、今や花形の立場です。実際に、里親を利用する児童数も、私の頃より、2~3割増えています。
こうした経過を振り返ると、当時の専門官の熱意があって、今に繋がっているのだなと思います。正直、当時は、なぜ、里親制度が大事なのか・・十分に理解していたとは思えませんが、20歳を超えた娘2人、中3の息子1人を持つ、今の立場では、よくわかります。
知識よりは、体験としての理解ですが、あの作業に関わったことが、子どもの育成ということを考えるきっかけになったことは間違いないようです。

 

専門官は、その後、某政党から立候補し政治家になりましたが、仕事で議員会館を訪問した際などには、良くしてくれました。

彼の国の役所での実質的な最初の仕事として、記憶に残ったからだと思いますが、私は、大して力になれなかったという気恥ずかしさを隠していたのが実際のところです。