Episode128 「地方行政の面白さと難しさを知った2年間 末端こそ先端」

2015年7月18日

1989年4月から2年間を経た1991年3月31日に、大津市を退職する辞令を受け取りました。形式的には、2回目の退職辞令でしたが、最初の国からの退職辞令(1989年3月末)を受けた時に比べると、厳粛な感じがしたと記憶しています。

 

実は、辞令交付の2か月ほど前に、大津勤務を数か月延長できないかと大津の人事課長から、厚生省に働きかけてもらっていました。

国の定例異動は7月頃ですので、4月に国に戻っても「碌なことはない」のが通常ですし、また、長期計画の実施のための残務処理が少しはあったからですが、「無理」と一笑に付された感じだったと聞きました。

 

3月半ばには国に戻ることが確定していましたので、生まれて半年も経たない長女を抱えながら、引っ越し準備を始める一方で、私は各部門からの送別会と称する飲み会の連続が始まりました。辞令交付の頃には、体力的には限界でしたが、その日のうちに、家族を電車で東京に先に行かせ、私は、さらに2日間、大津に残ることにしました。
お世話になった滋賀県、大津市を、もう一度、ゆっくり見てみたいと、自車で走るつもりだったからです。琵琶湖湖岸はもとより、大津市庁舎から歴史博物館・三井寺・琵琶湖疎水への道、将来計画に明示したラダー(階段)状の道路網が作られる予定地(当時は狭い生活道路)、補正予算の市長査定で、「○○交差点の角から3軒目の◇◇さんのお宅の前の道路が・・・」と市長が発言した場所などの各所を周り、夜は、知人と軽く飲みながらお世話になったお礼を伝え、最後は琵琶湖湖岸の高層ホテルから大津の夜景を眺めました。

 

大津を来た時には、社会人3年を終えたばかりでしたが、明らかに、大津前の3年と大津の2年を比較すると、何倍も大津のほうが自分自身の成長を促すには大事な時間だったと思いました。特に、山田市長の近くで地方政治の現実を実感できたこと、県・隣接市との間で地方行政の現実を垣間見ることができたこと、また、日々の業務やドイツへの市民文化交流団などで市民という存在がどのようなものかというのを知ることができたことなど、いずれも国で働くだけでは知り得なかったことです。特に、いわば「中間管理職」のような立場の県ではなく、現実に直結する市で働けたということが大きかったと思います。

 

大津に来る頃には、「国は中央・市町村は末端」と漠然と思っていましたが、大津を出てからは、「市町村は先端・国は後方支援」と考えるようになりました。具体的には、やる気のある市町村の足を引っ張らないよう、動こうとしない市町村は手段を尽くして動かすといった発想です。これは国立病院機構本部で、数多くの病院の相手をしたときも同じでした。
国や本部が、いくら旗を振っても、現場が動かなければ意味がありません。現場を理解し、現場を動かすような方法の提示、最後は「ネゴ」ということになるでしょうが、これを初めて感じたのは大津であり、これは主として国会議員や利害団体との調整が中心の国では感じたことのない「リアルさ」を伴ったものでした。これまで「末端こそ先端」という言葉を何回か使ってきましたが、これはこうしたリアルな体験を反映するものです。

 

今回、もし大津の経験がなければ、国の役所は辞めてなかったかも・・と思い返しました。当時のリアルな感じが、表面的な政策に留まらざるを得ない国の仕事を、より嫌に感じさせたのでしょう。

これからも当時想った「リアルさを大事に」というのは、忘れずにいたいと思います。

しかし、民間病院での不祥事(院長のパワハラ・理事長の虐待黙認・・)などを目の当たりにすると、こうした低レベルな現実には、目を背けたくなるのも正直なところです。