Episode126 「同世代の新聞記者の存在 刺激し合う交流関係に」

2015年6月28日

当時、大津市には記者クラブがあり、何人かの新聞記者がいました。記者クラブの窓口は広報室ですが、実際の取材は各担当課に直接出向いて行います。

私が所属していた企画調整室(当時)にも、記者の皆さんが、たまに顔を出していました。私の所にも来ましたが、概ねあいさつ程度で、当該室の別のセクションで行っている開発事業(当時はバブルでリゾート開発などが検討俎上に上っていました)が本命のようでした。

 

これら記者のうち、全国紙Y新聞の大阪本社採用の記者と親しくなりました。長期計画策定を担当する私と親しくなっても、記者から見れば何のメリットもないはずなのですが・・何がきっかけか記憶は曖昧なものの、気がついたら、一緒に飲む仲になっていました。

2人は、ほぼ同じ歳で、大津出身ではなく、また、大津に居るのは数年と決まっているという環境が似ていたのが背景ではないかと思います。大津の琵琶湖疎水(写真)に、ほど近い寂れはじめた繁華街に、2人で飲みに出て、カラオケを歌い続けるということもありましたし、酒を片手に長時間議論することもありました。また、私の狭い自宅に来て飲むこともありました。私が、節約して資金を捻出し仕入れてきたばかりの洋酒「バランタイン30年(当時1本5万程度)」を、数時間で空けたこともありましたが、翌日、その事実に気がついて、「えっ・・・」と思ったことも今では懐かしい記憶です。

 

2人で議論となるときは、概ね大津に関することではなく、「国の役所はけしからん。いつも十分な説明もなく話を決めて進める。国の横暴をチェックするのがマスコミの仕事だ。」と彼が口火を切り、「マスコミは批判するだけで対案もない。国への批判も直接ではなく『・・という声が上がっている』と間接的に言う手法ばかりで、自分の身を守るばかり。」と私が受けて立ち、あとは・・・酔っぱらって結論なく終わるというものでしたが、そうした何回かの交流の中で、マスコミの人とも本音で話すことができるのだなと感じたことは間違いありません。それまで、国ではマスコミ関係者との接触はありませんでしたので、この時の体験が、その後のマスコミ対応の基本姿勢につながっているのだと思います。

 

こうした交流は、私が大津を離れるまで続きましたが、その前に一つの事件がありました。彼が、大津の開発事業に関し市役所の公表前に記事する~いわゆる「特ダネを抜く」ということがありました。私は、その記事を見ても、「こんなこと考えているんだ・・」としか思わない程度の些細な内容と思いましたが、市幹部の企画調整室長は、誰が漏らしたんだ」と、なぜか庁内の犯人探しを始めました。そのうち、「彼と仲よくしているのは企画監(北川)か。君が漏らしたのか。」と失礼な質問も出て、呆れて、「記事の話は、室長は知っていたのですか。それなのに私には話していなかったのですね。」と反撃すると黙りましたが、こんな意識では、マスコミが市行政を理解してくれることは絶対ないだろうと感じました。

 

記事を「抜いた」日は、記者は出勤しないという不文律があるようで、当日、彼に会うことはありませんでしたが、後日、「あの情報源は○○議員だろう」と問うと、彼は笑いながら否定も肯定もしませんでした。私も、取材源の秘匿ということは知っていましたが、否定しないということは、肯定したことと理解しました。まあ、誰が考えても、某議員であることは、明々白々でしたが。

 

こうした記者との付き合いができたことも、その後の私に影響を与えたのでしょう。
彼は、今はどこで何をしているのでしょう・・一度は会ってみたいものです。