2015年5月16日
今回は、江差追分で有名な江差町から西北へ約60kmに位置する奥尻島です。
奥尻島は一島一町で人口は3千人を下回る規模。1993年7月の北海道南西沖地震の津波被害で200人もの死亡者(不明者)を出しましたが、その後の1995年には4千人を超えていたものの、その後、現在まで減少傾向は続いています。
現在の主要な産業は漁業と観光。5月1日には「島びらき」が行われ、観光客の受入体制が整ったという合図が出ています。夏には、とれたてのウニやイカを目当ての観光客も増えるとのこと・・今回は「食」を楽しみの訪問です。
奥尻島には、函館から航空便又は江差・せたなからフェリーのいずれかの経路ですが、今回は、渡島半島の日本海側を見るために、積丹半島を一周してから、渡島半島の日本海側を江差まで南下し、前泊としました。
江差には遅い時間の到着でしたが、ホテルの紹介をうけて小料理屋に行きましたが、思いがけなく店の主人夫婦と話し込むことに。きっかけは、店に飾られている数多くのネームプレートでしたが、聞くと、毎年2回開かれる「江差追分セミナー」に参加した方のものとのこと。
9月に全国大会が江差であり、その前後・・観光客の少ない時期(2月、11月)に、全国の民謡ファンを対象に2泊3日で開催するセミナーとのことです。奥様も江差追分を学んでいるとのことでしたが、残念ながら美声を聞くことはできませんでした。
その後、主人夫婦の血筋には、100歳まで元気だった親御さんなど長命な方が多いとの話から、地元や島の医療事情になり、「しばらくの間、江差病院(道立)に産科がなかったが医師確保がなされて復活した。しかし、7割以上の出産者は函館等に行っている、」という話を聞き、少々驚きました。「地元で医療」という行政の掛け声とは別に、利用者は車で90分弱の函館に行くことを選択するとの由。人口集中度の低い地域では、こうした広域分担もありなのだと実感しました。
さて、一夜明けて、今にも雨が降りそうな寒い曇り空の中、朝のフェリーで奥尻島に向かいます。数少ない乗客のほとんどは釣支度・・5月の連休明けに、観光で島に向かうのは少数派のようです。しかし、2時間程度で奥尻島に到着し、港で奥尻のゆるキャラ「うにまる」の出迎えを受けた頃には、陽射しがさし始め、奥尻ブルーと言われる海も美しく映え、船で冷えた体も温かくなってきました。
予約していたレンタカーの送迎を受け、移動中や手続きをしている最中に、島の状況などを聞くと・・
「お客の多いのはやはり夏場。5月の連休中には、それなりに人もいたが、今は誰もいないでしょう。」
「震災前から人口は減っていたが、今でも人口は減っている。高校卒業後に島を出て戻ってこない。」
「ここは地震の際に土砂崩れがあって数十人が生き埋めに。最も津波が高かったのは藻内で30m程度。」
「島に病院(国保直診)はあるが、函館、札幌にヘリ(時には自衛隊)で運ばれることも結構ある。」
「島では何でもやらないと食べていけない。日用品の販売から、車、船のレンタルまで、何でもやる。」
などと、島の暮らしや震災に関する話は続き、最後には、奥尻の銘柄のついたワインや日本酒(数日前に発売)を勧められました。
その後、島のガイドブックに従い、うにまる公園の桜、島の南端にある奥尻島津波館、北端にある賽の河原公園、球島山の展望所、海岸線に見える奇岩(写真は鍋釣岩)と青空の見える島を一周し、途中、遅い昼食と早い夕食として、奥尻ならではの食事を2回(なべつるカレー、あわび丼)終えることができました。残念ながら、ウニ丼は季節が早いということで食べられませんでしたが、逆に「ウニはあるが、地元産でなく、仕入も3日前なのでお勧めできない。」と、健康を心配する人情に触れることもできました。こうした正直さも、島の良いところなのでしょう。
予定を終えて、江差行の夕方のフェリーに乗るため港に戻ると、来た時とは違って何台もバスが並んでいました。しばらくして、フェリーから団体客と思われる一行が何組か降りてきましたが、本日、宿に泊まって海産物と地元酒で一杯・・翌日午前に観光して、昼の便で函館等へ移動するというツアーのようでした。今回、前後の日程から島泊ができなかったのは残念と思うばかりでした。
港では、レンタカー屋で勧められた日本酒を購入して東京に送りました。
どんな味がするのか・・楽しみです。