Episode118 「地方出向 新しい地の人と景色に温かく迎えられる」

2015年4月8日

厚生省に入省して2年目に厚生省と市との人事交流(相互出向)が始まるという話が広まりました。

他省庁で同じような交流が実施され、国・自治体双方に良い効果があったということを手本にして、昭和63年4月から始まるという内容でした。予定では3つの市、対象者は入省3~4年目の者とのことです。

 

特段、希望者が募られたわけではありませんが、昭和63年に入省3年目となる私は、積極的にアピールしました。

あまり肌にあわなかった厚生省内で異動するより、全く違う世界を経験したいという真面目な気持ちと、その頃に結婚予定でしたので2年間の新婚旅行という邪な気持ちの半分半分だったというのが正直なところです。
結果は、1年先輩の2名が人事交流の対象となり、当初より1か所減・・私は、無事結婚はしたものの、なぜか局間の異動はなく児童家庭局(当時)内で異動となりました。特に忙しい時期でもなく、普通では考えられない「残留」でしたが・・内心では、「1年後の省内異動は、たぶん行き場がないので、市に出る可能性が高い。」と判断し、機会があれば先輩・上司、人事課関係者にも地方に出たいと話をし続けました。

 

その成果があったかどうかは不明ですが、年号が変わった平成元年4月に出向することになりました。それも当初は対象としないとされた県庁所在地の滋賀県大津市です。所属は、新設された市長直属の組織~企画調整室でしたが、何をするかは行ってみないとわかりません。少なくとも福祉や医療といったことを直接担当しないことは明らかでしたので、期待は膨らむばかりでした。

 

4月1日に大津市役所に赴くと、玄関先で何やらビラが撒かれています。そのビラを受け取ると、「国からの出向者受入反対」との内容です。これが聞いていた労働組合の反対活動かと思い・・そのうちある着任の団体交渉が楽しみ・・何事も初の経験は楽しいものです。
企画調整室に行くと、当然のことですが、新組織のため全員が新任・・しかも全員が何をする組織なのかを明確には理解していません。企画監を筆頭とする企画部門と調整監を筆頭とする事業調整部門に分かれていましたが、私が室長補佐として所属するのは企画部門。
私の他には、市長の信頼の厚い室長補佐が1名、主査が3名・・全員が40歳代と当時25歳の私より二回り近い年齢差がありました。彼らから見れば、私など「小僧のようなもの」でしょうが・・国から来たというだけで丁寧に対応してもらえます。しかし、最初はともかく、実際に仕事をするとどうなるか・・と考えると少々不安でした。その時まで、形式的にも部下というものを持ったことがなかったからです。

 

さて、挨拶回りも早々に、引っ越しのため当日のうちに東京に戻り、数日後、私の配偶者と自車で改めて大津に到着しました。大津では、有名な三井寺の桜が咲き始めており、新生活を温かく迎えてくれているようでした。
配偶者は、結婚前は京都で会社勤めをしていましたが、結婚に際して東京の支店に異動(女性としては初)となり、さらに今回も1年も経たないうちに京都の本店に再異動という例外的な対応を受け、大津市の若い職員が利用する職員住宅~通称「チロリン村」と呼ばれる地で、新たな共働きの生活が始まりました。

 

大津での生活の最初は、企画調整室の皆さんからの歓迎会でした。それも配偶者と2人でのお誘いです。仕事の集まりに配偶者を連れて行くのは変な感じでしたが、見知らぬ地で、配偶者を1人にしておくのは可哀想との皆さんの配慮だったようで、2人で行くことに。
宴席では40歳を超える皆さんは、私より配偶者に気を遣う・・気を取られているように見えて面白くてしょうがありませんでした。1人の室長補佐は、自分の娘と言ってもおかしくない年齢の配偶者の手を握って楽しげに話をしています。少々、困った顔をする配偶者を見て周りも笑う・・いい感じの人達だなと感じたものです。

 

こうして大津の新生活は周囲の配慮で円滑に始まりましたが、組合の着任交渉がなかったのは残念でした。
当時の組合の責任者に、笑いながら「何でやらないの」と何回か聞きましたが、最後は、「ビラを巻いてすみません」と謝られてしまいました。これも交渉術の一つかもしれません。