2014年11月7日
今回は下野国国府を家族と訪問です。
古代関東には「毛野(けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる勢力が存在したと伝えられます。
この「毛野」が二分されて「下毛野(しもつけぬ)」「上毛野(かみつけぬ)」となり、その後、「下毛野」と「那須」の領域を合わせ、「下毛野国」として令制国に定められたと伝えられます。
さらに、奈良時代初期に漢字表記が「下野国」と2字に改められ、「毛」の字は消えたものの、その読みは「しもつけのくに」として、元の「毛」の名残をとどめているとの由。
長年、上野、下野を「こうずけ」「しもつけ」と読むのかと不思議に思っていましたが、訪問前の「一夜漬け」で謎も解消です。
前日は、自宅で約1週間遅れの長女の誕生会でした。家族5人が集まるのは、夏の旅行以来ですが、いまだに、こうした集まりが続くのも不思議なものです。親子の近すぎない距離感が大事なのでしょう。
今年、急に国内就職を決めた長女ですが、営業職として一応の成果は出しているようで、今年の目標を達成し、年末には、外国への社員旅行に無料で参加できる予定とのこと。したがって、福井で企画されている年末の親戚での温泉旅行には不参加が決定~彼女の祖父母は会えずに残念でしょうが、それも独り立ちの過程と理解してもらうしかありません。
さて、本日、大人5人が泊まるには手狭な東京の自宅から、朝から学校の長男、昼前から出勤の長女、午後から授業の次女を、順次、送り出してから下野国府に向かうことに。
下野国国府は、現在の栃木県栃木市、下野市の地域です。
栃木県は、30歳程度で、あるゴルフ場の会員になってから、毎週のように通ったところですが、国府周辺は、事実上、初めて行きます。今回、国府関係の施設の所在地を調べてみると、思川(渡良瀬川の支流)の東西に、国庁跡、総社、国分寺・尼寺がコンパクトに配置されていますし、また、これら主要施設の所在が明確となっているのは珍しいようです。
最初の目的地は下野国庁跡です。
現地には、小ぶりながら下野国庁跡資料館があり、そこを通って国庁跡に出ます。
眩しいくらいの日差しのなかで、田園に囲まれた国庁跡を歩くのは気持ちのよいものです。遠くに山が見える田園風景を見て、配偶者は「福井と同じね」と繰り返しますが、確かに、国庁跡近くにある集落は、配偶者の実家の雰囲気に似ています。
この地には、建物が一部復元されていますが、国庁そのものの建物があったとされる場所には、地元神社の本殿があります。こうした歴史のある場所に、正確に神社が建っているのは不思議な気がします。長年にわたり、この地が、大事な場所であることが言い伝えられてのことでしょうが、きっと歴史を大事にする風土があるのでしょう。近隣にある小学校も、鉄筋で作られているものの、瓦屋根の雰囲気が天平の寺院を思い出させます。
次に、下野総社大神神社に参拝です。
私が、当社が奈良の大神神社から分霊されたとの由緒や、和歌などに歌枕として見られる「室の八嶋」の地とされる由緒などを読み、拝殿・本殿の建築物を眺めている間、配偶者は、ひたすらリースの素材となるものを探しています。神域にある日本最大の広葉杉(こうようざん)の周囲で、「これは初めてみるもの。今年一番ね。」と大物を採取したことに喜んでいます。ちなみに当社の主神は大物主命~きっと神様の御加護でしょう。
その後、天平の丘公園の近くにある国分寺跡(写真)、国分尼寺跡に着いた頃には、陽も傾きかけていました。
もっと時間があれば、のんびりとしたいところでしたが、19時から都内で予定もあり、駆け足での散策となってしまったのは残念でした(それでも高速が渋滞で30分ほど遅刻)が、2時間強で一回りできたのは幸いでした。
今回、駆け足で周った下野国府域~東西五町、南北六町(1町=108m)程度の広がりがあったと推定されているとのことですが、この古代のコンパクトシティを、時代を遡り、この目で見てみたいものです。
これからの地方都市の再生に活かせるものがきっとあるに違いありません。