2014年10月24日
今回は東海道の東の橋 常陸国の国府を家族と訪問です。
常陸国は、東北地方への玄関口・守備口の役割が強かった地です。
常陸の語源は、道が真っ直ぐに続いている土地という意味で「直道(ひたみち)」からきているという解釈が一般的で、「常道」⇒「常陸」と転じたとの由。
「常道」と書いていた時の東北地方は「道奥」と書き、「常陸」と書くようになってからは「陸奥(みちのく)」に変わったとも。地名の由来は、なかなか面白いものですが、標高900 mに満たない筑波山が立派に見えるのも、確かに水戸以北の山岳地域までは平らな土地が続くからでしょう。本日も、真珠湾攻撃の第一航空艦隊に残念ながら出されなかった「ツクバヤマハレ(直ちに帰投せよを表す隠語)」と同じく、筑波山は綺麗に見えます。
さて、常陸国国府は現在の茨城県石岡市の地域です。
茨城県は、江戸時代に発展した水戸、昭和に生まれたつくば市に種々の機能が集中していますが、特につくば市は、今後も人口増加が見込まれています。こうした二つの都市の中間にある、石岡市は、数年前に人口8万人を切り10年後には人口7万人を切ると推計されています。
この石岡地域に、なぜ国府が置かれたか・・
地形的には,霞ヶ浦に注ぐ山王川と恋瀬川によって形成された石岡台地上に位置しており、きっと災害が少なく、霞ヶ浦等の水運が便利であるとの理由なのでしょうか・・当時、都市計画を行った人の想いを知りたいものです。
それが、これからの石岡地域の再生発展につながるかもしれません・・
石岡は、国府に置かれる国庁(行政機関)、国分寺・国分尼寺、総社が、車で数分で移動できる距離にあり、一回りするには便利な、いわばコンパクトシティです。ゴルフのショートコースを回ってから、まずは「常陸風土記」の丘で基礎知識を入れることに・・本日回る予定の地の歴史・遺物等を見ながらの散策です。桜や蓮も数多くあり、きっと花の季節には美しいのでしょうが、本日は、暖かい日差しだけで我慢です。
最も関心を引いた「鹿の子遺跡」は、この地で復元したものですが、本来の遺跡は、10万平方メートルを超える規模で、奈良時代後期から平安時代前期、恐らくは蝦夷征討などの軍事活動に関連して設置されたとみられる工房等が確認されたとのこと。東北地方への玄関口・守備口の役割~軍事的な役割を果たしていた常陸国ならではであり、別の見方をすれば、この一大産業が地域活性化につながっていたのでしょう。
続いて、国分尼寺跡、国分寺跡と回り、国分寺跡では、江戸末期に一世を風靡した寄席芸人~都々逸の祖として知られる初代 都々逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか)の供養堂を見つけました。説明を読むと、世相を風刺した唄も沢山作ったため、晩年に幕府・大名批判とされ江戸を追放され、石岡が終焉の地になったとのこと。こうした知らない歴史を知るのも国府散策の楽しみです。
次に、国庁跡が校庭に眠る石岡小学校に向かいます。小学校なので中に入れないかと思いましたが、併設する石岡市民俗資料館を目指すと、そこから広い校庭(写真)が見えます。近江国国庁と違って、現に利用されているのを見るのも不思議な感じです。資料館の方から、常陸国のことなど、しばらく話を伺いましたが、この学校も児童が減っており、他校と合併して跡地に国庁の復元をという話もあるようです。その昔、政治経済軍事の中心として栄えた地が、現代の人口減少で、過去の歴史に基づく施設を作る・・良い話なのか、悪い話なのか、難しいところです。
小学校の敷地内には、「常陸のみやこ」という説明版があり、この地の歴史が記されていました。こうした歴史を感じられる教育環境は、できれば大事にしたいものと思った次第です。
最後は、常陸國總社宮に参拝してから、常陸国一ノ宮鹿島神宮に向かいました。
古代の国司は、着任後最初の仕事は赴任国内の全ての神社を巡って参拝することと伝えられていますが、平安時代になると国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが広まったとの由。
常陸國總社宮は国庁跡に隣接していますが、鹿島神宮までは約50km・・
国司の最初の仕事の大変さ、総社を作りたいと思った理由を実感して、今回の散策を終了です。