Episode100 「時には本国の行動変容を促すことも大事な仕事」

2014年10月8日

今の日中関係は、日中国交正常化以降、最も冷え込んだ時期と言われています。
しかし、私の在任中でも、日中戦争が終わった8月、9月は、毎年、微妙な雰囲気が双方に漂っていました。この時期、中国側では抗日戦争勝利を記念する式典が行われ、日本側の戦没者追悼式や靖国神社参拝などが報道されるのが常でした。当時、既に戦後50年を超えていましたが、それでも日中戦争に関することは、北京では、双方が気を使い触れないようにしていたものです。

 

例えば、戦争の最終盤で中国東北地区で亡くなった数多くの軍人軍属の遺骨収集は、歴史的な沿革から実施されていないものの、戦没者遺族による現地への慰霊巡拝は中国側の判断で認められていましたが、それも8月、9月は避けることが暗黙の了解であったと思います。双方が感情的になりやすい時期に、あえて実施することで感情を逆撫でする必要はないということでしょう。

 

しかし、その季節を前に、厚生労働省から、中国側の感情を逆撫ですることが確実な協力要請が届き、愕然としたことがありました。
それは、戦後初のモンゴルへの遺骨収集団が、8月半ばに北京経由でウランバートルへ行き、また9月前半に東京へ戻るという内容でした。人の移動だけなら一般旅行者と変わらないのですが、問題は収集された遺骨について北京空港で各種手続等を受けなければならないという点です。

中国側が、どのような反応になるかは、容易に想像できましたので、早速、経路を変更できないかと担当部局に電話をしました。当時、大阪発ウランバートル行の直行便が週1便飛んでいたので、この便に切り替えて欲しいとの要請でした。

しかし、厚生労働省側の回答は、「今回は予定通りにやりたい。」の一点張り・・理由を聞く限りは、「変更するのが面倒くさい」としか聞こえませんでしたので、一度は「放っておくか」とも考えましたが、事前調整なしに北京空港に一行が現れて大問題になるのも、事後処理が大変なだけと考え直し、中国側に事前説明を始めることに。

 

中国側に「認められない」と言われる覚悟で、いつも親しくしている中国側部局から説明を始めましたが、最初は笑顔で迎えてくれた担当者の顔が、私が話を始めると、予想通り強張りはじめ、「なぜこの時期なのか」「別の経路はないのか」と、いつもとは違う冷たい雰囲気で質問が続きました。

最後に、「認めらない」との回答が来るかと思いきや、「大使館の責任でやってくれ」「空港現場には我々が了解したとは言わないでくれ」との回答でした。私の立場を理解しつつも責任は引き受けられない・・いわば「聞かなかったことにする」との意味と理解しました。他の中央部門も同じ反応であり、最終的には、空港の担当部門の判断となりました。

その後、何度も空港に足を運び、同じやりとりを繰り返しましたが、最後は、遺骨は入国前に消毒を行い、空港から出さずに保管する~いわば中国内に入っていないという建前での例外的処理となりました。ただし、「今回限り」という条件付でした。

 

1か月近い調整を経て、遺骨収集団は予定通りに北京空港に到着しましたが、そこで、また問題が起きました。
私の常識として、作業用の荷物は、航空会社間で手続きを行い、空港から出さないものと思っていたのですが、大量の荷物がターンテーブルから出てくるのを見て驚きました。空港に置かれている手押車のほとんどをかき集めました(それでも足りないくらい)が、そのため同じ飛行機で来た他の日本人観光客の「顰蹙を買う」という結果となりました。一般客の方が使う手押車がなくなったからです。

 

その夜は、私から一行の責任者に延々と「お説教」を言うこととなりました。
事前の中国側の否定的な反応からはじまり、今回限りと警告を受けていること、引揚事業等に悪影響を与える可能性のあること、今回の空港の状況では日本社会からも苦情・非難が出る可能性があること等々、ネガティブな要素を強調しました。
数週間後、初のモンゴル遺骨収集は成果をあげ、北京空港での検疫等も無事に進み、再度、厚生労働省の担当者に会うことになりましたが、彼らから「次回以降は直行便を利用する」との方針を引き出すことに成功しました。モンゴルで、先方と調整をしてきたようです。

 

最初で最後の北京での遺骨収集団の支援となりましたが、現在ではモンゴルの遺骨収集も終わり慰霊碑(写真)が作られています。

今や昔話ですが、今思えば、経路変更で最もほっとしたのは中国側政府機関なのでしょう。こうした双方の感情を逆撫でしないような対応を本国に迫るのも大事な役目だったと思います。