旅の楽しみ41:湖都大津で近江国庁跡を初めて歩く(国府散策)

2014年9月22日

今から1,300年前、律令制の下で、全国に令制国という日本の地方行政区分が設けられました。筑紫国が筑前国・筑後国に、火国が肥前国・肥後国になど、従来の大括りの地域が細分化されましたが、明治初期まで日本の地理的区分の基本単位として扱われ、今でも大きな影響を与えています。

先日、両親と越前国の国府の地を歩きましたが、こうした古の地域の中心が、今はどうなっているのか・・他も見てみたいと思い、今回から、順次、各国国府の今を見て歩きます。

 

今回は、家族との京都行に際し、近江国の国府周辺を散策することにしました。近江国の国府は、現在の滋賀県大津市に所在します。

大津市は、1989年から2年間、私が市職員として働いた地であり、また長女を授かった地でもあり、20歳代で最初の転機となった思い出の深い地です。
当時は、市・県のことを理解しようと、夫婦二人、市内・県内を車でよく出かけたものですが、なぜか近江国の国府があった瀬田地域(1967年に大津市に編入された旧栗太郡瀬田町の地域)には、縁がありませんでした。

 

よい機会と国府について調べてみると、思いのほか、新しい発見とわかりました。
各国の中心地域である国府には国庁(行政機関)の他、国分寺・国分尼寺、総社が置かれ、各国における政治的中心であるとともに司法・軍事・宗教の中心であったとされますが、近江国国府は、私が生まれた頃に、全国初の国府遺跡として発見(近江国府の広さは約1k㎡、その南端中央部に国庁があった)されとの由。近江国庁跡として国史跡に指定を受け、その後の各国国府の推定地や政庁の構造等の研究に活用されてきたとのことです。

 

晴天のなか、まずは瀬田地域にある近江一宮の建部大社に旅の安全を祈願するために参拝です。
近江二宮・三宮の日吉大社、多賀大社には、大津在住の頃に参拝したことがありますが、なぜか建部大社は初めてです。8月には、重さ1.5tの大神輿を船に乗せて瀬田川を下る「船幸祭」が催されますが、これも残念ながら見たことはありません。いずれ、春の山王祭、秋の大津祭とともに、一度は見てみたいものです。

 

さて、地図で見る限り建部大社から近江国庁跡は、それほど遠いわけではなさそうですが、なかなか辿り着けません。道幅も狭く、道も曲がりくねり・・いわゆるミニ開発が繰り返された地域で生ずる区画の悪い街並みに悪戦苦闘です。「できの悪い街だな・・」とつぶやくと、家族からは、「あなたも大津市の一員だったから責任あるでしょう」との鋭い指摘です(後日、調べてみると、現地の団地、住宅は昭和から平成の時代に建築されたもののようであり、確かに、こうした街づくりが進んだのには、私にも責任の一端はありそうです)。

なんとか車を停めて、徒歩で、団地の敷地内を抜けて、草一面の空閑地に向かうと、そこにある表示で、やっと近江国の国庁跡とわかりました。周囲の団地等がなければ、遠くまで見渡せそうな高台にあり、当時は琵琶湖も一望できたのだろうと想像できます。しかし、1k㎡の国府跡の大半は区画の悪い住宅地・・隣接の団地も半分は人が住んでいない様子など・・少なくとも1千年を超える歴史は感じられません。
そこから瀬田廃寺の碑が残る公園に向かいましたが、ここも高速道路に沿った地で、草も伸び放題。しばらく、子供が遊んだ気配も感じられませんでした。

県庁所在地にある国府等は、こうしたものなのかもしれませんが、25年前に見てみたかったなという実感です。

ミニ開発が進む姿を見て、より残念な感じがしたかもしれませんが・・

 

ただ、一度は政治経済の中心となった地が、いつまでも続くわけではないという点は考えさせられます。20歳代半ばの私たちが二人で住んだ小さな家も取り壊され、最寄りの駅の名前も変わるなど、街は変わっています。
近江国府が国府としての機能を失ったのは1千年前。これから1千年後、国府周辺、大津瀬田地域はどのようになっているのでしょうか・・そうしたことを考えた街づくりが大事なのだと思った訪問でした。