2014年8月18日
地方に仕事に出る時には、ほぼ中国側の受入がありました。突然、地方政府に出向いても、誰も相手にしてくれないのは日本でも同じことです。
中国側の受け入れ体制があれば、概ね、安全は確保されるものですが、一度だけ、中国側の受入がないリスクの高い状態で、地方政府を訪問したことがあります。
それは、1997年2月に、新疆ウイグル自治区の都市「伊寧」で起きた暴動後の状況を調査に行ったときです。
この地域は、古くからロシア・中国間で領土問題が生じている地域です。1944年には、ソ連の支援の下で「東トルキスタン共和国」として中華民国から独立しましたが、1949年の中華人民共和国の成立に際し、ソ連共産党と中国共産党との協議により、中華人民共和国に併合されるなど、現在の独立運動につながる歴史を持っています。
さて、2月の伊寧事件の後に、外務省から、当該事件の調査に行けとの指示がきました。担当は領事部となりましたが、他の部員はルーティン業務が多く、北京を離れるのが難しかったため、私が行くことになりました。ただ、暴動の後でもあり、一人では心もとないことから、中国人スタッフを1名連れて行くことに。
北京から飛行機で3時間・・新疆ウイグル自治区のウルムチに行き、そこから伊寧地方政府の外事弁公室に連絡をとり、「現地で会いたい」と連絡しましたが、「忙しいので」とすげなく断られました。
このまま帰るわけにもいかないので、中国人スタッフと2人で、伊寧行の飛行機で現地に乗り込みました。到着後、最初に行ったことは、空港でタクシーの運転手と交渉をして数日借り上げたことでした。移動の足を確保するとともに、現地の情報を聞くためです。
街に入ると、暴動から1か月以上経っていましたが、壊れた車が放置されたり、窓が割れた建物が残されていたりと、暴動の状況が見て取れました。タクシーの運転手の紹介で、外国人用のホテルに宿をとり、そこからまた、伊寧地方政府の外事弁公室に連絡をとりました。長いやりとりがありましたが、2日後にはホテルで面談できることとなりました。その際、「米国大使館等からも連絡があったが、現地に来たのは日本だけだ」と言われ、少々、リスクを軽視したかと反省もしましたが、来た以上は、あちこち見て回ることにしました。
翌日は、借り上げたタクシーで、市内を回りましたが、自由市場に入ると、そこはウイグル族が中心の場所(写真)で、全く違う雰囲気です。中国人スタッフは、変な目で見られ・・地元に慣れたタクシーの運転手がいないと、とても現地の方に話を聴けない雰囲気でした。
正直、私も身の危険を感じ、中国人スタッフに、「危なくなったら君を楯に逃げる。家族のことは私が面倒見る。」と言いましたが、本気2/3冗談1/3といった感じでした。
その後、市内から50kmくらいのカザフスタンとの国境ゲートに向かいました。右手に白銀の天山山脈を観ながら走ること1時間。全く別の世界に来た感じでした。ゲートをくぐる大型トラックのナンバーはキリル文字、人々の目はブルー、ドラム缶の上で焼かれるものはケバブ・・中国内のはずでが、ここは完全に別の文化です。ここでも皆から厳しい目で見られ、やはり、地元に慣れたタクシーの運転手が頼りです。
そこでの聞き取りも無事終えて、ホテルに戻りましたが、すっかり疲れてしまったことを覚えています。
3日目に、外事弁公室の方と面談しましたが、概ね、新聞情報と同じような回答ばかりでした。しかし、現地の人に聞いた話だけでも、十分に、外務省に報告できる内容でしたので、伊寧を離れることに。
空港で、タクシー借り上げの費用の清算をしましたが、約束の金額の他に、上積みしたのは当然です。彼なしに、今回のミッションを安全に終えることはできなかったと思ったからです。
なお、タクシーの借り上げ費用は、規定上、自己負担となりましたが、少しも惜しいと思いませんでした。自分の安全をお金で買ったと考えたからです。
お金で安全が買えるなら安いもの・・その後の自分の考えを固めた出張でした。