2014年7月8日
1995年4月に中国赴任して以降、厚生省関係者や国会議員に同行して、中国政府機関との面談に立ち会ったりすることは数多くありました。
こうした政府関係者や国会議員等の中国内での外交活動(交渉・調整等)を円滑にすることも、大使館員の大事な仕事です。
これが不調に終われば、2国間の関係強化を阻害することになりますし、また、大使館員自身が日本側関係者(うまくいって当たり前の雰囲気あり)に叱責される要因ともなります。
交渉内容の事前調整は当然のことですが、当日の手順~空港から大使館、ホテルへ、そこから相手国政府機関との面談へ移動等といった時系列の進行計画を整え、それを実際に円滑に行うことが大事になります。
通称ロジ(ロジスティックの略:軍事用語では兵站、経済用語では物流の意味)と呼ばれる「一連の仕事の流れづくり」ですが、これに失敗すれば、会議に遅れて、それで「終わり」ともなりかねません。
数人の訪中であれば、担当者を1名決めて対応すれば十二分なのですが、数多くの方が、一団で訪中するとなると、大使館全体として特別の体制を敷くことになります。複数の進行が同時に動くことになりますので、全体の動きを管理する者を置き、その指揮の下で、各担当が実際のアテンドを行う体制を整えることが必要だからです。
実際には、その指揮所を(通称ロジ室)、一行が宿泊するホテルの一室に置き、中国側、日本側及び大使館の連絡調整を行うことになります。
さて、こうしたロジ室設置を、私が最初に経験したのは、1995年9月に、2週間ほどの期間で開催された第4回世界女性会議(北京会議)でした。190か国を超える国が参加し、政府関係者だけでなくNGO(非政府組織)が参加するということで、日本だけでなく、各国大使館も同時に支援体制を整える大イベントです。
何せ初めてのことですので、要領もわからないまま、ホテルのロジ室に詰めていましたが、どうもロジ室の責任者も、こうした大規模な国際会議における支援は初めてのようで、また情報も不足気味のため、全体が混乱気味でした。
当該期間中に国会議員用に借り上げる車が集まらない(他国も借りているので)、借りられた車両も床に小さな穴が見えるような古いものしかない、会議会場へは移動規制が行われるらしいがその内容がわからない・・等々 課題山積のまま、日本側一行の到着の日を迎えました。
会議参加の国会議員のほとんどは女性議員、NGOも5千人規模見込みと、全てが「初物づくし」でした。
初日を終えるとロジ室内で報告会が行われましたが、「江沢民主席(当時)に会いたい。大使館でセットして欲しい・・」というのはマシなほうで、「野生のパンダ(写真)が見たい。北京周辺にいないの・・」「○○省までの時間は、どれくらい。大使館でチケット手配して・・」などと、到着した一部の国会議員が発した会議とは無縁の「迷言」を聞くことになりました。
その後、NGO関係でも、会議参加のIDを亡くしたNGOを支持者とする国会議員から、「大使館でID発行できないのか・・」と遠回しの「捏造」の依頼があったり、当初は多かった日本のNGOが数日のうちに北京からいなくなった(地方観光に行った由)りと、不思議な経験をしました。他国のNGOは、会議の最後まで政府代表等と交渉して、宣言・綱領に反映させる行動を継続したのと比較すると、少々、恥ずかしい思いでした。
もちろん、最後まで会議に参加し、宣言・綱領のとりまとめに関わった日本政府関係者(内閣府等)や一部国会議員、NGOの方の努力は立派なものと思いましたが、全体としては、当時の日本の政治家やNGOの力量不足を感じる結果となりました。
私は、あまり出番のないままロジ室業務を終えそうでしたが、一つだけ活躍がありました。
最後まで会議に出た国会議員の1人が過労で倒れ、その方の一時的な入院先を確保する仕事が回ってきたのです。中国側の病院との関係づくりも良く、円滑な対応ができましたが、その後の在任中も、国会議員の入院先の手配をすることはありませんでした。
その意味でも、世界女性会議は、個人的には得難い経験であったと言えそうです。
会議の内容自体には関心を持てませんでしたが、人間観察としては面白いイベントでした。
また、この経験が、その後の私の仕事の流儀(到達点を決めること+そこに至る道筋を決めることの組み合わせ)の原点のようです。