2014年6月18日
大使館は政府機関として交渉・調整を行うのが主たる仕事であり、時には、相手国政府と意見・立場が対立することもあります。
保健医療専門分野でも、たまには意見が対立することはありましたが、最も難しいのは、政治外交分野で対立が生じたときです。現在も日中間は政治面では冷え込んでいますが、当時も尖閣諸島(釣魚島)等をめぐり日中間が政治的に冷え込んだことがありました。
当時も大使館の前で日本国旗が焼かれたりもしましたが、こうなると中国では政治外交面だけではなく、他の分野でも政府機関間の連絡調整は難しくなります。
しかし、いつまでも日中間の冷え込んだ状況を放置できないのは当然ですので、当時は、日中間の対話を再開するため、人道的な側面が強い保健医療分野でのJICAを通じた協力により、局面打開が試みられました。
政治的対立が表面にあったとしても、現場に強い人的なつながりがあれば、水面下では対話が続けられる・・信頼関係があれば双方が爆発することはないということでしょう。
さて、当時の中国におけるJICAの技術協力(中国では無償資金協力は概ね終了していました)は、保健医療のほか、食品、農業等と多様な分野に及んでいました。特に、保健医療分野では、以前の無償資金協力による病院整備(中日友好病院など)に引き続く医療技術の高度化のための専門家派遣、WHOが推奨するポリオ根絶への専門家派遣、医薬品検査技術の高度化のための専門家派遣などの事業が幅広く行われていました。
私は、それぞれの協力事業が行われている現場を見に行ったり、日中双方の正式協議の場に政府機関を代表して参加したり、日本へ事業の成果・状況を報告したり、また日本から派遣されている専門家の皆さんの慰労を兼ねて、夜の会合や自宅にお呼びしたり(写真)もしました。
ピーク時には、自分の仕事時間の大半をJICA関係に割くようになっていましたが、JICA関係で病院等に行くと、病棟などの表舞台だけでなく、通常は立ち入りができない病院のバックヤードも見せてもらう機会を与えてくれるなど、自分自身の医療の勉強になり、また知的好奇心が満たされたからでしょうか。中国側、日本側を問わずに、保健医療関係者と話す機会を、北京はもとより地方出張の際に数多く得ましたが、誰もが、特に地方、農村部の保健医療水準をどのように上げていくか・・を真剣に考えている姿に心を動かされたことは間違いありません。
中国3年の在任中に50か所前後の病院(1千床を超える大病院から、数十床の地方の農村病院まで)を訪問したと思いますが、今から思えば、これが医療に深くかかわる第一歩であり、私の日本の医療事業に関する視点を定めるきっかけになったのだと思います。
例えば、当時の中国の病院は、政府に資金がないことから、事実上、医療保険制度も未整備のなかで、独立採算を求められる時代になっていましたが、面診(外来)の壁に医師の顔写真が一面に貼り出され、一人ひとりに値段がついているのを見たときは驚きました。患者が表示の値段を支払えば、医師を指名できるという仕組みだったのですが、その後、日本に帰り保険局医療課に勤務したときに、患者選択の促進の視点から、同じ仕組みが日本でできないか・・と提案してみました。しかし、役所の中でも医療団体にも賛同は受けられずに実施には至りませんでした。中国で実施されているものが、なぜ日本で実施できないのかと不思議でしたが、「日本の社会保障は社会主義」という中国の方に言われた言葉を実感したときでもあります。
当時から20年近くを経て、今回JICA中国事務所のHPを見ました。
事務所は当時と同じ場所のままですが、その協力内容は、保健医療から、環境保全・制度づくりへと重点が移っているようです。中国の保健衛生が全土で水準向上が進んでいるとは思えませんが、日本側の意図もあって協力関係が変化しているのでしょう。
昔と違って人道的分野とは言えませんが、こうした人的なつながりを活かして、今の厳しい局面をどう打開していくのか・・大変でしょうが、ぜひ頑張って欲しいものです。
また、中国滞在の期間を通じて、仕事もプライベートも家族ぐるみのお付き合いとなったJICA事務所の保健医療担当の方とは、当時の話や日本の医療制度の輸出の可能性を肴に、いずれ飲みたいものです。