Episode88 「中国政府との交渉窓口は国際合作司 日本語使いと出会う」

2014年6月8日

当時、私の仕事に関する中国側政府機関は、衛生部(保健医療)、労働部(社会保障)が中心でしたが、その外にも民生部(生活保護等)、人事部(公務員の社会保障)、公安部(残留邦人等)、食品衛生管理局、薬品監督管理局、計画生育委員会など多岐にわたっていました。

 

今回、久しぶりに中国の政府機関の状況をWEB上で確認しましたが、労働部は、労働社会保障部を経て、さらに数年前に人事部と統合し、人力資源及び社会保障部となっていました。

衛生部は、昨年、計画生育委員会と統合し、国家衛生及び計画生育委員会となっていました。

このように、中国政府でも累次の機構改革を通じて政府組織の数は減ってきていますが、当時は、日本では一つの役所でカバーしているものを複数の組織で細分化して担当しているのが当たり前で、政府機関の役割分担(例えば衛生部と食品衛生管理局、薬品監督管理局、計画生育委員会との関係など)を理解することが大変でした。

 

さて、それぞれの政府機関から情報を入手したり、調整・交渉をしたりする場合には、各政府組織の担当課と直接行うのではなく、国際合作司・・日本語で言えば「国際協力局」を窓口に行うことが原則でした。この国際合作司は、「○○処」という複数の組織で構成されており、通常は世界を地域別に区分して担当分けをしていましたが、日本との協力関係が深い役所~例えば衛生部、労働部では、単独で日本処(日本課)を持っていました。
 

日本処には、複数の日本語を話せる中国公務員がいて、いずれも当該分野の専門的な用語を正確に使うことができました。厚生労働省で言えば、国際課の中に、中国語が流暢な中国担当がいるようなものです。労働部では、副司長(副局長)も日本の大学に留学経験があり、親日的な雰囲気を醸し出し、かつ日本の制度に通じてもいました。
本来であれば、対等な関係で仕事をすべきなのでしょうが、領事部の中国人スタッフも日本語は達者であったものの、さすがに保健医療、社会保障等の専門分野の用語を自由に扱うのは無理でしたので、どうしても仕事のうえでは、日本処の皆さんの所に足繁く通い、その力を借りることが多くなりました。

 

中国革命の父と呼ばれる孫文の妻、宋慶齢の故居に隣接していた当時の衛生部には、2日に1回は行っていたでしょう。后海と呼ばれる湖の前に車を停めて、これも古い門(写真)をくぐって、窓口で国際合作司日本処への連絡を依頼し、窓口の近くにある歴史的な建物の一角の会議室で、依頼・調整・協議を繰り返しました。
もちろん外交はギブ&テイクですので、日本の最新の情報も相手方に提供するのは当然でした。当時の中国は、改革開放が動き始めて、その富を保健医療や社会保障の充実に振り向ける仕組みを検討する素材として各国の情報を欲しがっていました。特に、同じ漢字を使う国として、また、自らが学んだ日本語の国として、彼らは日本に親和性があると感じていたのだろうとも思います。

彼らから、「日本の制度は、まさに社会主義ですね」と言われたことは印象的でした。

 

また彼らは、夜の会合の際にも中国側幹部の通訳として参加しました。その通訳を聞きながら、私も保健医療、社会保障等の専門分野の用語を耳と体で覚えはじめ、概ね2年後には、領事部の中国人スタッフが行う仕事に関する通訳の正誤を確認できるまでにはなりました。ただ、病気や薬に関する中国語は、当時、ほぼ問題なく理解できましたが、日常生活に関わることは、それを覚えるような機会も少なく最後まで苦労しました。中国側の人は、私が病気等の難しい言葉を理解できるのだから、日常生活のことは問題ないだろうと思っていたようですが、夜の会合で「四苦八苦している」と言うと不思議がられたものです。

 

私が中国を離任する際に、ある政府機関の日本処の一人が日本系の企業に転職をしました。給与面で待遇が大きく違っていたことと、英語を覚えることが必要と言われたからのようでした。

さらに、帰国後、数年を経て中国に行った際には、日本処にいた英語が不十分な人達は、外郭団体に異動させられていました。どこの政府機関でも、英語を使うことが原則となったからのようです。

 

この結果、政府機関の中には、「日本語使い」は極端に減ることになりました。
こうした中国政府内の人的な変化も、今の日中関係に影響を与えているのかもしれません。