2014年5月18日
私の中国での仕事の本拠は領事部でした。
在中華人民共和国日本国大使館における私のポストは、日中国交正常化後に中国残留邦人の実態確認等を目的として設けられたと聞いています。初代の方は、日本から北京への直行航空便がなく、上海に入り、そこから国内の鉄道で北京入りしたという歴史もあります。
こうした経緯から、私のポストは、邦人保護を業務とする領事部に属していました。ただ、数代前から中国残留邦人の帰国支援が本格化し、そのために旧厚生省援護局から専属の書記官が派遣され、それと並行して対中医療協力なども本格化したことから、徐々に経済部の仕事も増えてきたようです。
私の頃には、経済部関係の仕事が2/3を占めていましたが、当時建国門外にあった旧日本大使館本館内の経済部には、私の机は用意されていませんでしたので、住まいであった塔園公寓にほど近く、亮馬河沿いに立地する塔園外交弁公大楼内にあった領事部内で、経済部関係の仕事をメインに、中国残留邦人の仕事などを処理していました。
当時の領事部の日本人スタッフは、部長を含めて計7名(併任者を含めると8名)。全体で100名程度の日本人スタッフのいた大使館の中では、小さな弱小組織です。しかし、次席の方の人柄もあり、また、様々な交流(夜も休日も)を企画する財務省からの出向者(研修を同時期に受けました。)の方の尽力もあり、それほど時間をかけることなく、一体感は高まっていきました。
領事部の仕事は、大きく分けて、邦人保護と中国関係者への査証(ビザ)の発給です。私は、残留邦人だけでなく、日本人の滞在者・旅行者に係るトラブルへの対応も、徐々に関わって行きました。
このうち、記憶に残るのは、次が双璧でしょうか。
① 親と中国に来たが、喧嘩して別れて公園で1か月ほど暮らしたが、体調が悪くなり、大使館に助けて欲しいと連絡してきた人
② 北京に旅行に来たが、最高級のホテルで自殺したい言い出し、公安局の協力を得て、身柄の安全を確保した人
まず、公園で身柄を保護された人は、日本系のホテルに泊めましたが、下血が止まらないので、もしやと思い、検査を受けさせたところ・・赤痢と判明し、感染症病院に領事部のメンバーの車両を利用して移送。親に連絡して、和解を促し、親が北京に来て解決という顛末でした。もちろん、自車の提供をした領事部のメンバー他には、赤痢であったことは、しばらくは伏せておきました。幸い感染の拡大もありませんでした。
また、自殺企図の人は、ホテルでの安全確保後、北京の精神科病院(最も質の高いもの)に移送し、念のため領事部の中国人スタッフを病院に置く対応をしました。所持品を確認すると100万前後の大金が出てきましたので、日本への移送の手続きのために親元に連絡すると、「そのままにしておいて欲しい。」との予想外の回答です。
どうも、本人は、日本で精神疾患の診断を受け、持て余した家族から見放され、大金を持たされて中国に送り出されたようでした。そのまま放置もできないので、さらに親戚筋に連絡をとり、日本への搬送は本人の所持金で対応するので、あとは日本での治療先を探してもらうという対応となりましたが、個人的には、とんでもない話だと思ったものです。
これらは、いずれも複数の領事部メンバーが関わり、チーム対応となった案件ですが、綿密な打ち合わせもなく、自然と役割分担ができ、円滑に解決できたのは見事なものでした。
この背景には、邦人を保護するという目的が一致していたのは、当然ですが、隠れた目的として、週末までに一件処理を終えるという共通の意識があったことも事実です。なぜなら、週末は、領事部のメンバーで、よくゴルフに行き、また、大使館関係者と在北京の経済関係者の交流を図るためのコンペ等の幹事も担っていたからです。
週末に予定がある時に限って事件が起きるのも不思議なものです。
しかし、2つの目的達成のために一致協力・迅速解決した愉快な仲間達も忘れられません。
もちろん、夜の街で楽しい時間を過ごした(写真)こともです。