Episode85 「中国での仕事始めは 家族の通訳業務から」

2014年5月8日

5月に入ると前任者は帰国し、私たち家族だけの生活が始まりました。

 

前任者からは、住まいの家具・食器、車両といった物品の他、お手伝いと運転手という人的資産も引き継ぎました。

2人とも、何代か続けて、厚生省から派遣された書記官夫妻に雇われ、日本人の生活、厚生省関係の仕事先などにも慣れていたことから、当面、私たちの不慣れな中国生活の支援者となると期待しての雇用でした。しかし、2人とも、日本語は理解できませんでしたので、中国語での会話・筆談を通じて意思疎通を図ることが必要でした。

最初の問題は、前任者が帰国後、引っ越す予定の塔園外交公寓(写真)の一角にある部屋の内装着手の段階で生じました。

 

ホテルに戻ると、家族が、電話を片手に、「お手伝いさんが電話で何か言っているが、意味が分からないので、話して欲しい。」と言います。配偶者は、赴任前に、数か月、外務研修の先生だった人の家庭教師を受けていましたが、ほぼ素人同然でした。

私も似たようなものでしたが、それでも、とりあえず電話に出てみましたが、当然のように、電話で相手の意図を理解するのは不可能とわかり、現地に行って、直接、話すことにしました。研修中に少しは上達した中国語も、3か月の勤務で、すっかり記憶の片隅に追いやられていましたので、それを必死で思い出しながら、また聞いたことのない言葉は筆談で・・最初の現地で単独の会話となりましたが、結局、「壁の色はどうするか・・」との話をするのに、20分近くかかってしまいました。

これではダメと思い、その後、個人的に、中国語の家庭教師を雇ったり、話すことに慣れるため夜学(実は、女性のいるカラオケ店)に通ったりと、いくつかの取り組みを始めるきっかけとなりました。

 

その後、1か月ほどして、私は、何とか運転手との意思疎通が図れるようになりました。必要最低限の行先、待ち時間、次の行動などの内容程度に過ぎませんでしたが、それでも徐々に慣れていきました。
一方、配偶者は、その後もお手伝いや運転手の2人との意思疎通には苦労していたようですが、買い物の依頼は、野菜の名前をリスト化して厨房の壁に貼り、それを指さして、意思疎通を始めました。運転手に行先を伝えるのも同じように筆談を中心にしていました。また、うまく言葉が出ない配偶者が、いわゆるボディランゲージを始めると、何を言おうとするのか、2人が、一生懸命に理解しようとしているのを見て、何となくほっとしました。いい人を引き継げてよかったと。配偶者は、最後まで、あまり中国語は上達しませんでしたが、それでも3年の中国生活を、お手伝いと運転手の2人の支援を受けて、様々な活動を広げていったのは大したものです。

 

大人の2人とは違い、2人の子供たちは、あっという間に、中国語による意思疎通を普通に始めました。子供は言葉を覚えるのは早いものですが、ときには、お手伝いさんが、長女を介して配偶者に話をするような場合もあったようです。運転手にも、待ち時間等で、よく子供をみてもらっていたようです。
他の家では、お手伝い、運転手には、何かとトラブルがあったようですが、我が家ではそうしてことは一切ありませんでした。私たちに、中国に悪い印象がないのは、彼らが大きな要因であることは間違いありません。

 

数年前、私の後も何代かに渡り引き継がれた運転手の退職のセレモニーが北京でありました。

彼に関わった者から寄付がなされ、退職金として手渡されましたが、同席した人の言によれば、彼は少し涙したようです。
我が家は、当然、お世話になった4人分を寄付することにしましたが、また、彼らに会えることがあるでしょうか・・。