Episode82 「中国への準備 往復3時間の通勤列車から始まる」

2014年4月8日

さて、今回から中国赴任前に遡って、概ね時系列に沿って書きます。

 

外国赴任が決まると、外務省の外務省研修所で、赴任地の言語の研修を受けることになります。私が、研修を受け始めたのは、保険局で行っていた入院時食事療養費(入院したら通常の定率負担以外に食費分を負担してもらう仕組み)の法律改正の施行準備の大枠づくりを終えて、後任者に引き継いだ1994年(今から20年前)の秋からです。

 

この外務省研修所(写真)は、私が研修を受けた1994年に、東京都文京区大塚から神奈川県相模原市相模大野に所在地を移しました。大塚であれば、通うのに何ら問題はないのですが、相模大野となると相当の時間がかかります。先輩から聞いていた、優雅な研修生活とは、全く違いました。
常磐線~地下鉄千代田線~小田急線と相互乗り入れをしている路線を行くだけですし、当時は、相模大野への直通電車もありましたので、乗換で面倒はないのですが、なにせ、片道で1.5時間近くかかり、霞が関への通勤時間の3倍ともなると相当の負担です。
霞が関に通っていた頃の「事実上の時差出勤」という訳にもいかず、死にそうなくらいに満員の電車に無理やり乗って、霞が関を過ぎて、あと1時間。人混みの嫌いな私にとっては、苦痛の時間が始まりました。

 

研修所に着いた時点で、既に疲労困憊なのですが、そこから何時間も中国語の研修を受けます。中国語で知っていたのは、麻雀で覚えた怪しげな数の数え方くらいですから、最初は何を聞いてもわかりません。今まで使ったことのない脳細胞を使い、最初は頭痛がしたものです。
途中で、研修所に付設する宿泊施設の利用も考えましたが、さすがに、就学前の娘が2人もいると、そう簡単に、言い出すわけにも行きませんでした。しかし、正直、宿泊施設を使っている人の時間的な余裕を聴くと・・羨ましいと思ったものです。

 

研修クラスは、初心者用の少人数クラス。確か4~5名程度の規模ですので、先生からの質問なども次々と回ってきます。中には、英語と中国語しか話せない先生もいて、私も、質問の回答が、英語と中国語が混じるという状態にもなりました。少人数なので、休んだりすると、他の人の負担が増えるので、休むわけにもいきません。たぶん、人生の中で、最も辛い時期の一つだったと言えるでしょう。天国の前に、地獄があったということです。
しかし、そうした限界状態を共にしたことで、中国に赴任する予定の皆さんと、仲良くなれたのは面白いものです。

農林省、警察庁、北海道開発庁などの方とは、特に親しくなり、帰りに一緒に飲み始めたり、外務研修の最終段階にあった京都での合宿後に、私が以前赴任していた大津でゴルフをしたりしました。

 

夫人も赴任地では外交活動の一端を担うものとして、夫人を対象にした一定期間の研修もありましたが、後で聞くと、就学前の幼い二人の娘がいたので、この対応が大変だったようです。

私が家で子守をしたり、研修所で娘の受け渡しをしたこともあります。相模大野の託児所に2人を預けたこともあるようですが、次女が泣きやまないので「お布団の部屋にいれられていた」と長女が母親に伝え、直ぐに止めることもあったようです。最終的には、地域の力を借り、ご近所の公園友達のママ達にお願いすることになりました。

子供のことは大変でしたが、研修で一緒になった奥様同士で会ったりして、出発前に人間関係ができたのは、私はもちろん、家族にとっても良かったのでしょう。赴任後も、何かあると、そのメンバーで飲んだり、奥様同士で集まったり、一緒に旅行に行ったりしていました。

 

1月には、約4か月の中国語の研修期間を終えて厚生省に戻りました。先生方の間では、何も知らない初心者の割には成長が早いと言われていたと聴きましたが、私を含めて初心者クラスのメンバーは、どうしたものかと不安に思っていたことは共通のようでした。

赴任までの期間、他省庁では、各省庁の研修費で、中国語研修を続けられるという人もいましたが、人使いの荒い厚生省では、一仕事をするのが通常でした。

 

当然、赴任までの数か月で、少しは上達した中国語が元に戻ることに・・。

他省庁の人を、羨ましいと正直思ったものです。