Episode81 「どんな分野でも第一人者になる これが成功の秘訣」

2014年3月28日

人事課との調整に失敗し1998年4月の帰国が決まったのは、確か同年1月頃でしたが、その頃から、後任者のために、概ね3年間で集め活用した資料を整理して、まとめの作業に入りました。

 

私が赴任した時には、簡単な日本語の資料メモと中国側の資料の引き継ぎはありましたが、残念ながら当時の中国語は極めて不自由で、知識の絶対的な不足と、仕事の立ち上がりのときに結構苦労しました。こうした経験から、後任者が来た際に、これを読めば数か月は仕事面で何とか生き延びられるという「事務必携」を作ろうと思い立ったわけです。

 

赴任後の仕事として関わることになるであろうテーマを整理し、そのテーマごとに当時の中国の基礎的状況を概観しつつ、その詳細を知りたい場合に便利なように、中国の文献を引用する形式とし、できるだけ自分の感想・判断は加えないようにしました。後任者が、自分の目で中国を見て、自分の価値観を決めるほうが良いと判断したからです。

実際の資料は、中国の各政府機関が発行する年鑑を基本として、この間に集めた他の文献等からも引用しましたが、資料は数十冊に及ぶことになり、3年の中国在任中で、最も中国の文献を見た期間となりました。

 

この地道な作業を始めると、結構面白く感じはじめ、毎日の帰宅時間も平均して深夜の2時・・興が乗ると徹夜という日も続きました。当時の執務場所は、中国の古いビルを借りていたので、深夜に水道管を水が流れる大きな音がしたりしたのですが、誰もいないはずの執務室での突然のこの音に驚き、背筋が寒くなるようなこともありました。

当初は衛生分野を中心に数十頁程度の予定でしたが、3月に完成した時には衛生・社会保障を通じた二百頁に及ぶ資料となり、引き継ぎのための資料というよりは、中国の衛星・社会保障全般に係る日本語による文献集のような感じになりました。

 

ここまで来たのだからと、単に後任者に渡すだけでなく、大使館から日本政府宛の公電という形で、報告書として提出する一方で、当時3年間仲良くしていたJICA事務所の方に完成品を提供しました。

あとは後任者に渡すだけとなった段階で、当時所属していた経済部の参事官(当時の通商産業省からの出向者)の方から、「社会保障について、ここまでまとめた文献は見たことがないから、ぜひJETROに紹介するので、数回にわけて連載して欲しい」と要請を受けました。企業進出の前提として必要な情報が多数含まれていたからだと思います。またJICAの方からも、「衛生分野で活用できる資料なので、種々と使わせて欲しい」との申し出も受けました。中国に訪問する衛生分野の日本人専門家への事前説明資料等として活用されたのでしょう。

 

公電により外部省から厚生省に報告書はわたったはずですが、そのルートからは何らリアクションはありませんでした(当時の厚生省はWHO等の国際機関を通じた国際関係重視で2国間の意識は希薄だったことが背景・・)が、JETRO、JICAといった外国との関係を強化するための政府系機関からのリアクションがあったのは、非常に嬉しかったことを覚えています。努力したことが、予想外の人に認められた喜びと驚きです。
特にJEROの連載が実現したのは帰国後でしたが、その文献は広く研究者にも読まれたようで、数年の間は、ネットで検索すると、中国社会保障関係の論文で、私の連載した文献が引用等されている例を見ることもできました。

 

本来の目的であった後任者の直接役に立ったかどうかは、本人から聞くことはありませんでしたが、その次の後任者(2001年に赴任)に資料を渡したところ、事前準備を含め、いろいろと活用してもらえたようです。現在、厚生労働省が発行する隠れた白書「海外情勢報告」にも、2001~2002年版から、中国の社会保障関係が毎年記載されるようになっていますが、その記載・構成等を始めて見たとき、何となく私の離任時に作成した資料集の残滓を見て嬉しく思ったものです。

 

こうして考えると、たぶん資料完成時には、中国衛生・社会保障を体系的に語れる数少ない日本人の一人であったことは間違いないでしょう。意図して、そうなったわけではありませんが、中国での日々の蓄積が、最後のまとめに繋がったのだと思います。もし、その道を継続していたら、今と違った別の成功に到達していたような気もします。

当時の同僚の何人かは、中国専門の学者等になっているのを見ると、あながち間違いではないかもしれません。

 

要は、どんな分野でも第一人者になる。これが大事なのでしょう。