旅の楽しみ33:12年前の北朝鮮拉致被害者帰国支援の記憶を棚卸し

2014年3月23日

福井へ戻る途中、佐渡に立ち寄りました。

 

春休みの3連休ですが、母親が2回目の心臓カテーテル手術、父親も20日に睾丸摘出の手術と、いずれも自宅近くの病院に入院中です。

いずれも無事終了し、また、母親の3回目の手術も父親の退院も25日の予定と聞き、早く帰っても特にすることはないと、長年の懸案である佐渡に向かうことにしました。

 

私の佐渡の記憶は、北朝鮮拉致被害者に関わるものです。
5名の北朝鮮拉致被害者の帰国の際に、私は国内支援の責任者に指名されました。東京での事前準備を終えて、被害者の一人、曽我さんの地元受入の支援のため、単身佐渡に渡ったのは、2002年の10月です。

 

曽我さんが宿泊することとなった相川の温泉宿に拠点を置き、結局、1週間強の滞在となりました。東京から曽我さんに同行してきた外務省他の方とあわせて4~5名での滞在でしたが、私は、地元自治体の真野町(当時)が行うマスコミ対応(200名を超えるマスコミ関係者がいました)の支援ため、宿に戻るのは、明け方が通常で、早くても午前様・・食事は役所でコンビニの弁当ばかり、温泉に入ったのは早朝に1回だけという状況でした。曽我さん支援を本務とする他の方が、夕刻には宿に戻り、温泉につかって美味しい食事をしているのを羨ましいと思う間もなく、嵐のような佐渡の滞在を終えて東京に戻りました。

 

その後、時間が経つにつれ、拉致被害者関係の報道を聞いては、当時のことを思い出すたびに、「もう一度、佐渡に行って、あの宿でゆっくりしてみたい。」と思うようになっていました。
しかし、なかなか佐渡に行く機会はできずに現在に至りましたが、間もなく12年を経過することに気づき、このままでは行かずに終わるかもしれない・・と、今回、あえて寄り道をすることにしました。

 

12年前と同じく、新幹線で新潟駅に到着。そこから佐渡汽船の港にタクシーで移動し、ジェットフォイルという高速船に乗り1時間で佐渡に到着です。当時は、タクシーで真野町役場に直行し、途中で垣間見た無秩序で混乱しているマスコミの大集団を見て、相当の覚悟で仕事にとりかかりましたが、今回は、レンタカーで、気楽に佐渡一周に向かいました・・。

当時泊まった宿を予約し、当時食べられなかった夕食をいただき、温泉にもゆっくりと入りました。
食事をしながらも、温泉に入って窓から外(写真)を見ても、当時のことが思い出されます。
数多くのマスコミの人が宿に「曽我さんは何を食べたのか」と取材していたこと、宿を100人近いマスコミが取り囲んで危険なので警察に交通整理を追加で依頼したこと、午前様で宿に戻ったら同宿者の好意でおにぎりが置いてあったことなど・・記憶の片隅にあったことを思い出しました。
もちろん、今の宿は落ち着いた雰囲気で、波の音はしても、当時の喧騒はありませんでしたが・・。

 

また、当時一緒に仕事をした旧真野町の方は、どうなったか・・と、スマホで調べてみると、当時真野町長として、陣頭指揮をとられた高野氏は、その2年後には、合併した佐渡市の初代市長となり、2期の任期を終えて、ちょうど2年前に引退されたとの由。やはり12年の歳月は長いものです。

1泊2日の短い滞在でしたが、佐渡一周に成功し、当時、マスコミ対策をして曽我さんを送り出しながらも、自分では見ることができなかった、いくつかの名所旧跡を訪ねることもできました。

 

今回、佐渡らしい食事もいただき、長年の懸案を一つ片づけることになりました。
これで北朝鮮拉致被害者支援の記憶も、やっと棚卸しができそうです。