Episode79 「自分と違うものに触れ 理解することは得るものが大きい」

2014年3月8日

今回から、中国への赴任話です。

 

在中国日本大使館に書記官として赴任したのは1995年の4月です。
1986年に厚生省に入省した際、10年で辞めると宣言していましたが、その10年を迎える前に、外国生活という新しい変化が生じました。

 

外国に行く機会を得ることができたのは、最初の保険局勤務の際に、一応、それなりの成果を出したことによるのだと思いますが、当時の企画課長から外国に行く気があるかと聞かれました。
当時は、ゴルフを本格的にやり始めた頃でしたので、外国=ゴルフのイメージで、直ぐに「行きたい」と回答したことを覚えています。

 

その場で、行きたい場所を言ったかどうかは記憶が定かではありませんが、当時はメルボルンの総領事館に領事のポストがあり、誰もが暇だということを知っていましたので、第1希望は、当然メルボルンでした。

残念なことに、私はメルボルンではなく、中国に行くことになりました。理由は不明ですが、企画課長から、「ゴルフ場のない所にした。」と言われました。しかし、既に、当時の中国でもゴルフ場建設は進んでおり、コースの良し悪しは別にして、ゴルフ環境はそれ程悪くないことは、リサーチ済みでしたので、家族に相談することもなく、即座に「行きます。」と答えたものです。

こうした曲がった心で決めた外国赴任でしたから、当然、中国での勤務期間中は、ゴルフはもちろんのこと、種々の会合を開催し参加し・・とプライベートも充実し、お陰様でゴルフのハンディキャップは、一気に一桁まで行きました。

 

しかし、プライベート以上に、仕事の面でも充実したものとなり、その後の私の仕事に大きな影響を与える基礎的な期間となったことは間違いありません。
当時の在中国日本大使館は日本人スタッフが100名前後いて、霞が関の各省庁から数多くの人が出向で来ていました。しかし、1つの省で多くても2人であり、ほぼ自営業のような仕事ぶりでした。各者とも形式的には○○部という大使館の組織に属して各部長の指揮命令系統に入るのですが、上司となる部長は外務省の方ですので、各省出向者の仕事の内容について知見は少なく、出向者に任せるしかない面が強かったからです。

 

特に、私が担当していた医療制度や社会保障などは、何も知らない~専門性から見て当然のことですから、ほぼ1人で内容を考え、舞台回し(仕事の進め方)を考え、自分で会議等の場で演技をし、最終的な儀式の場(協定の締結等)に部長や公使の方に出てもらう・・といった仕事を繰り返していました。それが、その後の私の仕事のスタイルの基礎になっていることは言うまでもありません。
また、2年目からは、極力、北京を離れ、地方を見て回ることに時間を注ぎました。最終的には、在任期間中に、香港・マカオを除く、全ての省・直轄市に行くことができました。仕事では、青い目をした少数民族のいる国境の町、チベットの地方都市の病院、ミャンマーの地方政府衛生責任者との会談など、二度とできないような得難い経験もありました。プライベートでは、就学前の二人の娘を中国の夜行列車に乗せて地方移動など、現地の一般の人と同レベルの生活を経験することもありました。

 

正直、見るもの全てが新鮮な経験は、あの時以来、ありませんが、恵まれて安逸な日本では当たり前かもしれません。また、もし、中国でなく、希望通りにメルボルンや他の先進国に行っていたら、こんな充実した時間を得ることはなかったでしょう。
お蔭さまで、中国の仕事面・生活面の奥行きの深さに起因して、当時、自分の予想をはるかに超える数多くのものに触れて考えが深まり、また顔は似ているが考えがまるで米国人のような中国人を理解することで、自分自身得られたものは大きいと実感しています。

 

これがなければ、役所はもっと早く辞めていたでしょうし、今のような考え方を持つこともなかったと思います。
やはり、同じところに長くいるのではなく、環境を変えて、自分を磨くことが大事だなと思うばかりです。