Episode58 「危機管理に必要なもの 最後は危機意識の共有」

2013年8月8日

世界が震撼した2001年9月11日にアメリカ合衆国で起きた同時多発テロ事件。日本でテロとして報道がされ始めた23時頃に、私は、夜の会合の一次会を終え、二次会として、当時、よく行っていた赤坂の中国パブに顔を出していました。
店のママが、普段と違って、TVにくぎ付けになって番組を見ていましたので、私も、それにつられて、番組を見ていると・・旅客機が世界貿易センタービルに激突する映像(写真)を目の当たりにしました。最初は、音声が聞こえないので事故かと思っていましたが、ママが「テロは怖い」と繰り返し言うので、やっと事情がわかり・・・それから暫くして、酔っていた頭が動き出し、「これは、役所に戻って、滞在者、出張者の安否確認をしなければ」と思い至りました。
それから15分後、同席していた国際課の同僚とタクシーで役所に戻りましたが、同じく夜の街にいた数名が、国際課に戻ってきました。

 

私も含めた酒臭い数名が、作業要員でしたが、当時、こうした事態に対応したマニュアルなどある訳もなく、手探りでの作業開始です。最初の問題は、誰が米国にいるか・・を確認することです。個別の名簿もないので、米国に滞在する大使館員・留学生のリストアップ、公務員用のパスポート発行履歴から米国にいる可能性のある出張者のリストアップから始め・・朝までには、その名簿を完成し、各局に所在確認・安否確認を依頼。並行して、外務省に対し、米国滞在者への伝達内容(直ぐに帰国するのか、安全確認されるまで滞在するのか)を確認しつつ、把握された情報を絨毯部屋の幹部に報告する手順となりました。
日本と米国の12時間以上の時差=日本から昼に連絡すると米国は夜という環境下でしたが、なんとか1日後には、厚生労働省関係者でテロに巻き込まれた者はいないことが確認されました。米国滞在者には大使館員を中心に連絡体制を整えること、米国出張者には次の指示があるまで現在のホテルに引き続き滞在すること(直後は飛行機も飛ばす、移動が禁止されており、事実上、移動はできませんでしたが)を伝達し一安心でした。

 

国際課の面々は、担当を超えて、それぞれ分担して協力してもらえましたが、この一件が、旧厚生・旧労働と分断されていた組織が、一体のものとして行動し始めるきっかけとになったと感じています。また、その中でも、最初に「酔いどれ」で集まり、その段階まで帰宅せずに尽力してもらった数名に対し、当たり前と言えばそれまでですが・・、その熱意に感謝するばかりでした。
先日も、その一人と久しぶりに夜の会合をする機会がありましたが、その時の話で盛り上がり、改めて、当時の感謝の気持ちを伝えたところです。双方とも、今では、年齢は立派なオジサンの世代ですが、当時は、若さのせいか・・よく頑張れたものです。

 

さて、安否確認後、米国社会が精神的な安定を取り戻すに応じて、順次、出張者の帰国を進める予定でしたが、1組の出張者が、こちらかの指示を無視して、自分で飛行機を手配し帰国してきたことが報告されました。

確認すると、上司の判断で帰国を決め、部下を連れての強行でしたが、預けた荷物は紛失したものの、無事帰国したとの由。しかし、その上司が、私の同期の一人と聞いて、頭に血が上り、本人に電話をしました。
「お前、なぜ指示を無視して帰ってきた。」「日本で仕事の日程があったのだからしょうがないだろう。」「お前が死ぬのは勝手だか、部下が死んだら、お前は仕事があったと言って責任が取れるのか。」「無事帰ってきたのだから良いだろう。」「結果が大事ではなく、危機的な状況で責任を全うするかの問題だ。お前には、当分の間、公用のパスポートは発行しない!」と宣言して電話を切りました。
その後、会議等の場で会っても、その同期とはギクシャクした感じでしたが、しばらくの時をおいて、彼も頭で理解し、私も感情が治まりと、双方に変化があったせいか、従来通りの感じに戻ったものです。

 

3.11の東日本大震災に起因する福島原発の危機管理に比べれば、大したことのない作業ですが、それでも大震災関係の報道を見るたびに、当時のことを思い出しました。
危機管理には、熱意のある人員と正確な情報、そして何より「危機意識の共有」が必要という実感です。