2012年9月18日
国の行政機関が集中する東京都千代田区霞が関で、いわゆる官僚として働いていた時から7年を経過しますが、その間、霞が関の国の機関を辞めてTVで寵児になった人を何人も見てきました。
幕末の勤王の志士などをイメージさせる「脱藩官僚」とも呼ばれていましたが、いつも、そうした人たちをTVで見て、「お役所時代には何をしていたのか?」と、不思議に思っていました。
お役所のあり方がおかしいと思うのであれば、内部にいて、その改革を進めるのが一番の早道であり、外部に出て、批判をしても何の意味もないのに・・・と考えたからです。
また、もし内部にいて改革できなかったのであれば、政治の世界に打って出て、自分の目指すべきものを実現すれば良いのにとも思います。
最近では、元経済産業省官僚の人が、過去の原子力政策の批判をするに至っては、原子力発電所(写真は大飯原発)の多くを引き受けてきた福井県に今住む者として、「在職中に、大きく変えてくれればよかったのに。それが出来なかったのに、何をいまさら・・」と思うばかりです。
私も、厚生労働省を辞めると決めた要因はいろいろとありますが、少なくとも、あからさまに、所属した組織を公開の場で批判する心持ちになったことはありません。何回か、マスコミの記事にしたいとの話もありましたが、「公務員を辞めて、まだ、何も達成していませんので」とお断りしました。
公務員組織の一員であった訳ですから、過去所属した組織を批判する前に、自分自身、その時何をしたか、今後何をするかが問われると考えたからです。
一般の経済社会では、会社を辞めるのは珍しくありませんが、元の会社を批判して重用される人はいません。
しかし、なぜか国家公務員に対するTV・社会の目は違うようです。国家公務員=悪であり、脱藩官僚=非悪=善ということなのでしょうが、時代劇の単純な勧善懲悪の枠組みで、本当に社会が変わるのか疑問でなりません。
もちろん国家公務員組織内部にも数多くの問題を抱えていますが、最も重要なのは、国の将来や政策的な方針を考える役割が、閉じた国家公務員社会に集中していることを、どう変えていくかではないかと考えています。
国の将来を考える役割を担う者は、公務員という閉じられた社会で一生を終えるのではなく、多くは公務員から民間企業や政策研究の世界に出ていく、また逆にそれぞれの分野のエース級が公務員の世界に数多くが入ってくるという、人材のダイナミックな動きが必要と考えます。
選挙で選ばれただけでは、社会の将来を決めるには力量不足であり、こうした国の将来を考える人材の厚さが、社会の将来を決めると思うのですが、違うでしょうか。
私には、国家公務員である者、国家公務員であった者だけが、何かと話題になる社会には、未来の可能性を感じられません。ちなみに、官僚を辞めても霞が関の代弁をしている元官僚は「過去官僚」と言うそうですが、私も過去官僚の一人なのでしょうか?