Episode4 「国の役所で働いて私が得たもの」

2012年2月8日

私が厚生省に入った(写真は入省直後の特別養護老人ホーム研修時)きっかけも、辞めた理由と同じように、よく聞かれます。
国のために働きたい、安定したステイタスの高い仕事につきたいなど、人それぞれの理由があるでしょうが、私は、極めて個人的な理由から、国の役所で働くことを選択しました。それは父との関係です。
私の父は、三人兄弟の末弟ですが、兄二人はそれぞれ高校・大学と進学し、国鉄や検察で働くことになったものの、父だけは、北川家を継ぐという事情で、いわゆる学歴を身に着ける機会が得られず、若くして農業や職人として働き、それを継続できるよう市役所現業部門に入ったという経歴です。当時の父は、兄との比較で、学歴さえあれば、もっと社会的な地位を得られたと思っていたはずであり、それを実現することを就職活動中の私に期待していたと思います。
その気持ちを薄々は承知していたので、私自身は、国家公務員試験も受けて合格はしていましたが、実際には、民間企業に勤めるべく既に内定をもらって、父に企業に就職すると伝えました。すると直ぐに父が東京に来て、私に「企業に行きたいのであれば行けばいい。ただし、大学時代にかけた費用は返してもらう。」と、明細を見せながらの直談判となりました。
考えてみれば無茶な話ですが、私は、その金額の大きさを見て、別に働くならどこでも同じか(そこに行けば何かあるはず)と単純に考えて、「わかりました。公務員になります。」と回答しました。「ただし10年だけですよ。」と念は押しましたが。(この後、厚生省の採用面接となるのですが、その時の面白い話はいずれまた)

 

さて、「面白いかもしれない」との程度で入った厚生省でしたし、また元々が先輩後輩の形式的な上下関係も嫌いでしたので、入省後も、よく先輩に、いろいろ議論をふっかけて、今から思えば、「稚拙で無駄に見える」やりとりを繰り返していました。しかし、私にとっては、この事前のやり取りが、非常に大事だったのです。どんな小さな仕事でも、自分自身が、仕事を始める前に意味を納得しなければ結果が良いものにならないと、高校以降の経験でわかっていたからです(少しは先輩を試すという意味もあったことは、否定はしませんが)。
当時の国の役所は、入省年次が1年違えば文句は言えないとの厳しい上下関係が普通だったようですので、こうした私の態度について、先輩からは、「お前は、先輩を先輩とも思わない態度だ」とよく言われたものです。

 

入省1年目から、この調子ですから、経験を増すごとに、仕事を始める前の関係者の協議は内容が濃くなっていき、後半10年では大きな制度改正ごとに、組織としての方針が決まるまでは、役職の上下にかかわらず、納得するまで徹底的に厳しく議論するのが普通でしたので、一部の上司、先輩には「社会性がない奴」と思われたはずです(実際に、辞める際には、「あいつは社会性がないから、民間では無理だ」と言っているという話も聞きました)。
しかし、私自身は、これは私の仕事スタイルであり、変える気は一切ありませんでした。一方では、方針さえ決まれば=やるしかないと思えば、その方針を実現するために全力を尽くすことも、やり抜いてきたと自負しています。
それは、決まった方針が自分の意向通りでなかった場合もです。その時点での自分の考えが足りなかった又は説明能力や事前準備が不足していたから自分の判断が通らなかったと理解し、あとは、組織の一員として思考を変えて、ある意味「マシン」となり、その実現のために工夫し、国会議員や団体幹部との交渉・調整も進めてきました。

 

もちろん、負けず嫌いの性格ですから、次の機会には、自分の判断が、全体の判断にならなかった反省を生かし、自分のスキルや準備のレベルを、その時点で考え得る極限まで引き上げるよう努力しました。
こうした繰り返しが、私の思考を鍛え、「状況を分析し、やるべきことを論理的に決める」「それを実現するため、他者に伝える手段を考える」という二つの軸で構成される、今の仕事のスタイルを磨いてくれたのだと思います。

もし、所属した組織の中でのみ通じる社会性だけを磨いていれば、今の私はなかったでしょう。

 

次回から、国立病院機構時代です。