Episode2 「国の役所をやめるということ(仕事編)」

2012年1月18日

辞めると最終的に決めて「退職願(写真)」を厚生労働省の人事課長に正式に出したのは、国立病院機構財務部長になって2年目にあたる平成19年の6月初旬です。

通常、厚生労働省の人事異動は7月、8月頃であり、その人事から、私をはずしてもらうことを確定することが必要だったためですが、実際には、その時期を超えて、国立病院機構に在籍することになってしまいました。個人的には、退職を正式に決めてから次の仕事を探し、実際に辞めてから半年は「のんびり」して、それから始動と考えていたのですが、大きく構想とは外れました(その結果、国立病院機構の再生プランに関わることになったのも、何かの縁を感じます)。

 

国立病院機構の河村副理事長(当時)には、4月ごろに、厚生労働省に戻るような話もいただきましたが、私の考えを伝え、副理事長から人事課に話をしていただき、その後に「退職願」を提出しました。当然、私の後任を誰にするかという話になるのですが・・・

しかし、前々から、私が国立病院機構を最後に辞めることを知っている当時の人事課長が、「厚生労働省も人がいないので後任は出せない。北川にしばらくやってもらうよう説得しろ」と言い出したのです。

私は、その話を副理事長から伺って、旧厚生省のいつも通りの「人事当局のいいかげんさ」に思わず笑ってしまい、それまでも同じような扱いを受け続け慣れていましたので、「来年3月までなら」と困った顔をしている副理事長にお答えした次第です。

 

さて辞めることを、どのように仕事の仲間に伝えるかも難しいところですが、たまたま財務省主計局の主査から仕事の電話があり、その際に、わざと大声で、「俺、辞めることにしたから」と電話を切ると・・・

まず、財務部の当時課長であった中嶋さんから、「さっきの電話は本当ですか?」と聞いていただき、「本当だよ。だから、いなくなることを前提に、3月までの仕事の計画を組んでね。」と、私がいないことを前提として、財務部の一人立ちに向けた作業が始まりました。

また、清水厚生局長(現 国立病院機構副理事長)や村木審議官(現 内閣府政策統括官)から、「いなくなると困る(理由はそれぞれ違っていましたが)」と、ありがたい言葉をいただき慰留されましたが、「私は、十分役所で働きました。求める能力は、他の誰かに担ってもらってください。」と話をしたり、私が辞めると聞いた知人に会った時には、「厚生労働省の○○さんに、北川のことをどう考えているのかと聞いたら、『あいつは、うるさいことが言うけど、一人で任せておけば大概のことはやってくれる。便利なんだよね。』と言っていた。」と、組織における私の位置に関する自己評価と一致した言葉を伝えていただき、加えて、「・・・辞めて正解かも知れない。」と、私の判断と同じ言葉を、その知人からいただきました。

 

最後の半年、次の仕事を決めたり、再生プランと、あれやこれやと忙しく、面白い時期でもありました。

これで無事退職と思いきや、2月に、再度、後任の問題が生じ、なんと人事当局から、また、「人は出せない。夏まで北川にやってもらえ。」という話が来ました。これを河村副理事長から伝えられ、さすがに笑えず、「何を考えているのですかね? 次の仕事も決まっているのに」と一言。

平成20年3月31日 国立病院機構から厚生労働省に異動し、同日付で、私が課長補佐になりたての際にお世話になった江利川事務次官(現 人事院総裁)から、無事、退職辞令をいただくことができました。

「心が軽くなった」と感じたことを覚えています。

組織に依存せず、リスクを引き受けながら自由を手にする。これが、私に合った生き方と選択しました。