親と歩く56 昭和6年生まれの父親 3歳年上の長兄の喪主に

2016年8月29日

飛島への往復を終えて、27日に秋田大曲へ向かう途中に訃報が届きました。それは父親の長兄が亡くなったというものです。

 

叔父は、30年以上前に50歳代半ばで脳梗塞を患い、半身に麻痺が残ったため、国鉄(当時)の特急運転士の業務ができなくなり、早期勧奨退職を受入れました。その後、奥様の支えで、在宅生活を継続していましたが、7年前に奥様が亡くなって以降は、奥様との間に子供がなかったことから単身独居となり、近所に住む私の父や叔母(父の妹)が面倒をみていました。絵に描いたような老老介護です。
私が小さい頃には子供同然に、私の子供には孫のように接してもらい、今年も正月には家族で訪問し、子供は、お年玉もいただいたようです。しかし、ここ数年は認知症も進行し、介護の必要性が高まっていました。在宅生活であれば、介護保険というイメージですが、形式的に過ぎる介護サービスの利用を本人が嫌った結果、数年前から自分の年金等を原資に家政婦を雇っての在宅生活という現在では珍しいスタイルとなりました。それが本人には合ったようで、認知症は進むものの安定した生活が続いていました。これが介護保険サービスだけでは、私の父や叔母は疲弊しきっていたに違いありません。

 

私も、何かあれば応援しようかと思っていましたので、約2か月前に自宅で転倒~急性期病院に入院~数週間前に慢性期病院に転院~肺炎の状態が悪く栄養がとれないので経管栄養に切り替えるといった一連の話は私に届いていました。しかし、経管栄養の話が届いてから24時間も経たないうちの急転直下の訃報に正直驚きました。約1か月前に急性期病院に、私の奥方と2人で、お見舞いに行きましたが、病院の患者対応の不味さには驚いたものの・・叔父の状態からみて、転院する慢性期病院での療養~自宅に戻っての生活が、まだまだ続くと思っていたからです。また、お見舞いの際には発症していなかった肺炎が原因と聞いて、病院で肺炎に罹患したのかと釈然としなかったのも事実です。

しかし、福井では28日通夜、29日告別式と日程は着実に決まっていきます。私個人の28日名古屋宿泊、29日名古屋仕事という日程から、福井に戻ってこなくてもよいという連絡もあり、一時は、仕事の後にお参りするかとも思いましたが、大曲の花火が上がる中、28日の東北の予定を早めに切り上げて地方空港間のローカル便に乗れば通夜の最後に間に合うことを確認。スマホでの予定変更も無事終了し、叔父との昔話を思い出しながら、夜空の花火(写真)に、叔父の冥福を祈りました。

 

28日通夜の会場に着いたのは、親戚一同が食事を始めた頃でした。10年以上も会っていない従兄弟の顔も見え、車椅子の姉が、介護疲れから回復気味の義兄の手を借りつつも、積極的に筆談をする姿が印象的でした。学生の頃には、従兄弟たちとも接する機会も多くありましたが、それぞれが仕事に就き、家庭を持つと、次第に交流も減ります。こうした機会に旧交を温めるのも悪くはありません。短い時間でも福井に戻ってよかったと思った瞬間です。
この時点で、喪主の父親は既に疲れているようでしたが、叔母夫婦や私の奥方のサポートもあり、無事進んでいることを確認し一安心。29日は仕事で出席できないことをお詫びし、当日のサポートもお願いして通夜は終了です。

 

本日は朝から名古屋に移動し仕事でしたが、奥方からのLINEで無事進んでいることを確認。家族もいないことから納骨まで一気に終える忙しい日程が無事終わったことを確認したのは、福井に戻る列車の中でした。その移動中に、福井を離れる従兄弟の切符の手配をし、福井駅で合流して手渡したのは19時過ぎ・・最後に少しは役に立ったかと思いつつ家に戻るとトラブルが待ってました。
父親が「金の入ったカバンがない」と心配そうな顔で話しかけてきました。主な場所に連絡しても「見当たらない」とのことで、父親から本日の行動を聞く一方で、叔母や新幹線で東京へ移動中の奥方から状況を聞くと、午前中の行動の一部の記憶が父親から完全に欠落していることが判明。
午前中の行動から、きっと自宅にあると考え、父親がいつも使う引き出しの上下の引き出しを確認すると、探し物は出てきました。本来の場所以外にカバンを置いた理由はわかりませんが、喪主であり金庫番でもあったため、いろいろ忙しく動いていたことから生じたトラブルなのでしょう。また、長年近くにいた長兄が亡くなった喪失感も大きいのだと思います。本人は、忘れていたことにショックを受けたようですが、出てきたことを喜ぶように促して笑顔を取り戻しました。

 

表舞台の儀式には、一切、貢献できませんでしたが、後始末には、少々、貢献できたようです。
明日の夕方は、両親と日帰り温泉に行き、2人の疲れをとることにします。