親と歩く18 母親 50年ぶりに「自生山那谷寺」に詣でる。

2013年5月15日

今月は、連休明けに納車された自車で、両親と隣県石川の加賀市周辺にお出かけです。

 

当初は、昨日、福井の沿海部に行く予定でしたが、母親が「事故にあうと嫌だから行かない。家の古い車なら安全だ。」と、意味の通らないことを言い出し、少々、ムッとしたのでキャンセルとなりましたが、1日おいて、双方、気持ちも静まり、本日無事、外出となりました。

 

南に行くのは、今回は方角が悪いと考え、急遽、北の方角に行くこととし、WEB上で検索すると「日本折紙博物館(世界最大の折紙ミュージーアム)」を発見、まずは、そこに行くことに。

福井の自宅から北陸自動車道を利用して約30分程度の近距離にある施設ですが、ナビを頼りに着いてみると、加賀の「食」や「工芸」を中心とした伝統文化を今に伝えるテーマパーク「加賀藩文化村」の一角にある施設です。残念ながら、加賀の人間国宝が製作を実演する人間国宝館は土日・祝日のみの開館のため、見学できる施設は、折紙博物館だけでした。

正午から小一時間ほど、各自それぞれに折紙の展示を見学し、私は、この施設のメインである「加賀のお菓子」を、今週末のチャレンジド研究会のために買い求めました。

 

さて、時間も早いので、近くに何かないかと、スマホの「ご当地案内」で検索すると、「九谷焼窯跡展示館」がヒットし、10分ほどで移動です。山代温泉の一角にある小さな施設で、まわりを住宅に囲まれ、ナビがなければ、間違いなく通り過ぎるような感じです。

チケットを購入すると、父親と同じ昭和6年生まれの男性がガイドにつき、施設の説明をしてもらいました。同世代ということもあるのでしょうが、3人の後期高齢者が楽しそうに話をしているのを見ると、微笑ましい限りです。

聞くと、国の指定史跡の窯跡は、約200年前に九谷村から移築されて1940年まで使用。隣接する登り窯は、九谷焼としては現存する最古の窯(実際の使用は1965年頃まで)との由。この窯は、1940年生まれの現在73歳、両親より若いのですが、市指定の文化財とのこと・・私には、元気に話す3人の「お年寄り」のほうが、文化財(国宝は言い過ぎ)に見えたところです。

 

最後に、数km離れた「自生山那谷寺」に詣でることに。父親は数十年前に職場の旅行で行ったことがある、母親も私が生まれる前、赤ん坊だった私の姉と詣でたことがあると、繰り返し、車中で話をしていました。

那谷寺は、白山信仰と深く結びつく仏閣で、起源は養老元年(717年)に遡り、平安時代中期の寛和2年(986年)に、花山法皇が西国三十三カ所の第1番・那智山の「那」と、第33番・谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と名付けられたとの由緒があります。

境内には岩山と洞窟がたくさんあり、その洞窟は母親の胎内=生まれる間に魂が清められる場所、魂のゆりかごの場所と信じられており、昔、母親が幼い姉と廻ったのは、こうした由来を感じてのものだったのでしょう。母親は、お寺の人に、「50年ほどまえに来て洞窟等を回った記憶があるが、今でもあるのか・・」と、繰り返し聞いていました。

個人的には、「変わるはずないよ」と一瞬思いましたが・・・前田利常公が寛永17年(1640年)に現存の建物を建立してから400年近くを経ていますが、母親が来たのは50年前・・その時間から、変わっているかもしれないと思い直したところです。

 

新緑の境内をゆっくりと歩きながら(写真)、現地に行くと、両親とも、「ここに来たことがある。」と発声。特に、母親は、「娘は桃色の服を着て・・・」と記憶が鮮やかに蘇ったようです。昔の風景は知りませんが、両親には、当時と同じ景色が見えたのでしょう。

しかし、50年の時間経過による足腰の衰えは隠しようがなく、昔は、元気に上ったと思われる石段を前に立ち止まり、石段の上の大悲閣拝殿を眺めて、引き返すことに・・・。

門前で、「仮に今年亡くなったら」と、二人の写真を撮って、自車で、一路、福井の自宅へ。

 

母親の心配をよそに、無事、到着。次回は、揉めることなく、出発できそうです。

なお、二人は遅くまで、フォトパネルにアップした写真の出来栄えを批評していました・・。また、次回も撮影でしょう。