1963年 |
福井県に生まれる。 福井県立藤島高校、東京大学法学部を卒業。 |
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1986年 |
(旧)厚生省入省 |
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1989年 |
滋賀県大津市企画調整室 |
都市開発計画担当 |
1993年 |
保険局保険課 |
医療保険制度改正 |
1995年 |
在中華人民共和国日本国大使館 |
医療協力担当 |
1998年 |
保険局医療課 |
平成12年度診療報酬改定 |
2000年 |
医薬局総務課 |
医薬品・医療機器の承認関係等 |
2002年 |
保険局総務課 |
高齢者医療制度等の閣議決定 |
2003年 |
障害保健福祉部 |
障害者保健医療福祉改革ビジョン |
2005年 |
国立病院機構本部財務部長 再生プラン、経営改善、建設投資・設備投資改善、長期債務管理改善 等 |
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2008年 |
民間医療法人本部統括部長 事業再生・再構築、本部機能構築 等 |
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2010年 |
現在事業を開始 医療法人・社会福祉法人の経営体制の改善支援の他、企業の業務支援、全国医療団体の政策支援を実施 |
5名の方が北朝鮮から帰国した際(2002年秋)の国内支援班の責任者を担当。帰国3日前に指令を受け、事情も分からず3名で準備開始。
赤坂プリンスの帰国記者会見で山口百恵さん以来の会見規模となったのを見て驚き。帰国者より1日前に現地に入り、1週間、200人規模の取材陣を引き連れ、ほぼ徹夜の状態で現地支援。
忘れられない1週間でした。
障害者自立支援法の国会審議(2005年初夏)の際、村木厚子企画課長(当時)から、「○○議員があなたのことを実名で質問したのよ。心配しないでね。」との連絡。事情がわからないので、村木課長が国会から戻ったところで聞いたところ、「○○議員が、審議会でのあなたのやり取りを国会で引用して、この人は心の冷たい人ですね!と言ったのよ」とのこと。
国会議事録に実名が残るのは名誉なこと。後日、別の議員から、「君があの心の冷たい人か」と労いの言葉もいただけました。
ほぼ無意味な国会対応で、印象深い事例でした。
5万人を擁する国立病院機構の財務部長就任後半年。前例を無視して、気合いで予定価格を半分に。もちろん、それなりの事前準備ありですが。
建築業界の前に、各病院長、事務長から嵐のような批判「落札するはずがない」と。予定通り「7回入札してください。それでダメなら考えます。」と回答し横車を押す感じで社会実験を開始。
なんと、9割以上が4回までに落札。その後は、数十億~百億単位の案件もスムーズに。業界が国病を民間同様と認めてくれた瞬間を実感。踏み込まないと高い成果を得られないことも再認識。
公務員を辞めることを最終決断できた瞬間でもあります。